平賀城(ひらか) | |
別称 : 龍岡城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 平賀氏か | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR小海線中込駅徒歩30分 | |
<沿革> 源義光の四男で平賀冠者と呼ばれた源盛義の子平賀義信が築いたとする伝説がある。 ただし、義信の生きた平安末期から鎌倉初期に山城を築く慣習はなく、信憑性は高いとは いえない。義信の子朝雅は牧氏事件に巻き込まれて殺害され、平賀氏は没落して歴史の の表舞台から姿を消した。 南北朝時代以降に、現地に残っていた在地領主の平賀氏が、小笠原氏分流大井氏に 降ったものとみられている。平賀城が築かれたのは戦国時代に入ってからと推測される が、詳しい築城の経緯や平賀氏の動向については詳らかでない。 平賀氏といえば、天文五年(1536)に海ノ口城で武田氏と対峙した平賀源心が知られて いる。源心の名は『甲陽軍鑑』にしかみられないことから、つい近年まで非実在説が根強く 存在していた。しかし、今日では法名を「玄信」とする人物の存在が取りざたされ、これを 源心と同一とする説が提唱されている。平賀玄信は諱を成頼といい、長窪城主大井貞隆 や内山城主大井貞清とは兄弟ともされる。『甲陽軍鑑』の平賀源心は、海ノ口城をひと月 あまりに渡って守り抜いたものの、初陣の武田晴信(信玄)が撤退すると見せて城を急襲 したため、不意を突かれた城兵は混乱して源心も討ち取られたとされる。 平賀城は大井氏に接収されたと思われるが、定かでない。天文九年(1540)に武田氏 が再度佐久へ侵攻して以降、いずれかの時期に攻め落とされたとみられている。その後、 武田氏によって改修されたと考えられている。 <手記> 平賀朝雅や平賀源心の名は知られていますが、平賀城の歴史については史料上から はうかがえないようです。内山城から滑津川を挟んだ南西側に位置し、プディング状の 形良い山です。車であれば、正安寺から墓地へと登る林道を登って背後の堀切まで行く ことができます。徒歩の場合は、西側の瀧不動寺ないしアヴェニュー佐久平の分譲住宅地 から登れます。 背後からだと、いったん堀切を下ってスライドし、堀切上の数段に削平された曲輪の脇に を通ります。防備としては堅固とまではいえませんが、石積みの跡が広範囲に残っていて、 当時は総石塁だったのではないかとさえ思われます。最後尾の小ピークの曲輪ということ でここが搦手曲輪と呼ぶに相応しいように思いますが、現地の標柱でその名を冠している のは、本丸下のやや広い腰曲輪です。その曲輪から急坂をしばらく上ると、頂上の本丸に 出ます。 主城域は、本丸から三の丸まで縦に細長く連郭式に並んでおり、曲輪間は土塁ないし 石塁で隔てられています。ただし段差程度の高低差で堀はなく、ほぼ一体といっても過言 ではないでしょう。本丸はさらにわずかながら上下2段に分かれていますが、櫓など高層 建築があったとは思えません。後述のように、これより下は無数の削平地エリアとなって いることから、平賀氏ないし大井氏時代の平賀城はおそらくこの主城域部分だけだった ものと考えられます。これより大きくても、動員能力的に分不相応だったでしょう。 主城域から西側へ下っていくと、平賀城最大の特徴といえる削平地群が広がります。 斜面一面に小区画がびっしりと並び、石塁や土塁で細かく分かたれています。とはいえ 防衛能力がさほどあるとは思えず、また根古屋にしても家屋を建てるには狭く、用途が 判然としません。 直感的には、小諸城が整備されるまでの、武田氏の佐久における拠点城・陣城だった のではないかと思いました。武田氏の領国甲斐には、やはり多数の削平地を山腹にもつ 蜂城があります。削平地群は前峰の大林寺山にまで及んでいるそうで、数えて縄張り図 に起こした方には本当に感心します。 |
|
平賀城跡遠望。 | |
最後尾の堀切。 城へはいったん左下奥へと下ります。 |
|
搦手の曲輪の石塁。 | |
同上。 | |
搦手の曲輪の段築。 | |
本丸下の「搦手曲輪」。 | |
本丸下の石塁。 | |
本丸上段の標柱。 | |
本丸下段から上段を望む。 | |
本丸脇の切れ込み。 かつての虎口跡か。 |
|
本丸と二の丸の間の石塁。 | |
二の丸のようす。 | |
三の丸のようす。 | |
三の丸先端の虎口。 | |
虎口脇の石碑と説明板。 | |
西側中腹の削平地群。 | |
削平地群の石塁。 | |
削平地群の土塁。 | |
削平地群の一画。 |