植栗城(うえぐり)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 植栗氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR吾妻線群馬原町駅よりバス
      「太田支所前」バス停下車徒歩7分


       <沿革>
           いつごろ誰によって築かれたのかは定かでない。『日本城郭大系』には寛正年間(1460〜66)の
          築城とあるが、根拠は不明である。
           『郡内旧記』によれば、応仁二年(1468)十二月、岩櫃城主斎藤行弘が妹婿の柳沢城主柳沢
          直安を急襲し、直安は逃れて植栗城の植栗安芸守を頼った。直安の叔母は安芸守の妻であったと
          される。これが、植栗城が文献に登場する最初のものである。ただし、行弘の名は他の文献には
          みられない。植栗氏については吾妻氏の支族とされるが、詳しい系譜は定かでない。
           斎藤氏の庶流大野氏が岩櫃城主のとき、大野憲直は植栗河内守元吉といさかいを起こし、同じ
          斎藤一族で岩下城主の斎藤憲次に植栗氏討伐を命じた。しかし、元吉と懇意(親族であったとも)
          であった憲次はこれを逆手にとって元吉と共謀し、植栗城を攻めると見せかけて岩櫃城を急襲した。
          大野氏は滅び、元吉は憲次に従った。
           永禄六年(1563)、武田信玄の命を受けた真田幸隆の侵攻によって岩櫃城斎藤氏が滅んだとき、
          植栗城主植栗河内守元信(『大系』では安房守)が斎藤方として戦っている。元信は斎藤氏の一族
          とされるが、元吉との関係は不明である。その後元信は武田氏に従い、天正元年(1573)に柏原城
          の城将の1人に任じられた。武田氏滅亡後、植栗氏は真田氏配下に留まったが、江戸時代初期に
          断絶した。植栗城の廃城時期は明らかでないが、早ければ元信が柏原城主となった際に廃された
          ものと思われる。


       <手記>
           植栗城は、吾妻川の2つの支脈に挟まれた緩やかな台地先端の河岸上にあります。本丸の南に
          流れる小沢と河岸とで形成する小さな舌状の部分を利用した城です。
           全体的に畑地化・宅地化されていますが、本丸を中心に遺構はよく残っています。舌状の本丸は
          そのまま畑となり、土塁は畔となっています。本丸の西には空堀が穿たれており、その脇に城址碑
          が建てられています。本丸の南には帯郭があったそうですが、送電鉄塔が建てられ、旧状は大きく
          損なわれています。また、帯郭の南には、沢をこえて曲輪が広がっていたとみられていますが、これ
          も圃場整備によって地形が変わってしまっています。帯郭南東隅付近の小字追手と呼ばれるあたり
          に、わずかに城としてのよすがを感じさせます。
           城の南東には、植栗安芸守の碑なるものがあります。碑とあるだけで、墓なのか宝篋印塔なのか
          私には分かりませんが、往時はこのあたりも城内や館に含まれていた可能性もあると思われます。
          遺構として残っているのは本丸周辺のみですが、城跡はおそらく地主の方によって非常にきれいに
          整備されており、一歩歩くごとに畔の蛙が2〜3匹田んぼに飛び込むのどかな田園風景を醸し出して
          います。

           
 本丸南西隅の城址碑。
南から本丸を望む。 
 本丸西側の空堀。
字追手から城内を望む。鉄塔のあたりが腰郭。 
 植栗安芸守の碑。


BACK