本堂城(ほんどう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 本堂義親か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR大曲駅からバスに乗り、
      「上払田」下車徒歩25分


       <沿革>
           天文四年(1535)、本堂氏は平地に本堂城を築き、山城の元本堂城から移ったとされる。
          当時の当主は本堂義親と推測されるが確証はない。本堂氏は和賀氏の分流で、観応三/
          正平七年(1352)に和賀基義が足利尊氏から山本郡内3郷を与えられたことにはじまる。
           義親は鴬野で戸沢氏と戦い討ち死にし、子の頼親は金沢城主との戦いで戦死、頼親の
          子・朝親もまた、波岡で戦死したとされる。それでも本堂氏は一定の自立性を保ち、朝親の
          子・忠親は、天正十八年(1590)に小田原へ参陣して豊臣秀吉から9千石弱の本領安堵を
          受けた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、忠親の子・茂親は東軍に属したが、同七年(1602)
          に佐竹家と入れ替わりの形で、常陸国志筑へ8500石で転封となった。これにより、本堂城
          は廃城となったとみられる。


       <手記>
           本堂城は本堂町市街の西方、矢島川沿いに位置しています。南隣の同規模の大身領主
          である六郷氏の六郷城も、市街地からやや外れているのは共通点といえます。他方で、
          六郷城の遺構がほとんどみられないのに対し、本堂城の主郭(内館)は完存といえるほど
          良好に残っています。
           主郭はほぼ方形で、北東には鬼門除けの隅欠けのような張り出し土塁がみられます。
          また、この北東隅に土塁が残り、その下には雄勝地方の魔除けの道祖神である鹿島様が
          祀られていました。正門は南に開いていたとされ、また西辺にも門跡があります。
           東側には外郭の外館と外堀があったそうで、おそらく忠親・茂親父子のころに整備された
          のでしょう。外堀は圃場整備によって消滅していますが、内館が堀跡ごとこれだけ完全に
          保存されているというだけでも、かなり奇跡的に感じます。

           
 西辺の堀跡。 
同上。 
 西門跡。
説明板。 
 内館のようす。
北東隅の土塁。 
 土塁上からの眺望。
土塁を外側から。 
 鬼門除けの隅欠けか。
東辺の堀跡。 
 南東隅のようす。
南辺の正門跡。 


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