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金沢柵(かねざわ) |
別称 : 金沢城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 清原氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR横手駅からバスに乗り、「金沢公園前」 下車徒歩15分 |
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<沿革> 築城の経緯は不明である。応徳三年(1086)、後三年の役で源義家・清原清衡連合軍に 攻められた清原家衡は、厳冬の到来もあって沼の柵で撃退に成功した。これを一族の誉れ とした家衡・清衡兄弟の叔父・武衡は、家衡により堅固な金沢柵へ移るよう勧めた。 翌寛治元年(1087)九月、義家・清衡連合軍は金沢柵を攻めたが、武衡の言うとおり難攻 不落の城柵は落ちる気配を見せなかった。そこで、武衡の妹婿にあたる吉彦秀武が義家に 兵糧攻めを献策すると、季節が冬へ向かっていたこともあり、城内の食料は早々に窮乏した。 飢餓をより早く進行させるため、義家軍は投降してきた女子供を皆殺しにし、柵内から脱出 できないようにしたとされる。 十一月に入り、とうとう糧秣が尽きると、家衡らは柵に火を放って逃亡した。2人は柵南西の 蛭藻沼に潜んでいるところを捕えられ、斬首された。この戦いは、日本における兵糧攻めの 史料上の初出とされる。役後、義家は柵跡に八幡宮を勧請し、城砦としての役割はいったん 終えたものとみられる。 長禄二年(1458)、南部家臣・金沢右京亮が入ったとされる。右京亮については南部守行 の子とする説もあり、金沢城を拠点に仙北地方へ南部氏の版図拡大を図ったとみられる。 その後、16世紀前半には小野寺氏の勢力圏となった。 天文十五年(1546)、小野寺稙道は家臣の大和田光盛や金沢八幡宮別当の金乗坊らに 背かれ、湯沢城で敗死した(平城の乱)。3年後には、稙道の遺児・景道が八柏城主八柏 道為ら旧臣の支援を受けて、光盛や金乗坊を攻め滅ぼした。この間、一時的に金乗坊らが 金沢城に拠っていた可能性が考えられる。 その後、『小野寺系図』によれば景道の弟・道秀が、金沢氏を継いで金沢城主となった。 また『奥羽永慶軍記』によれば、景道の子・義道の代に六郷城主六郷政乗の弟が金沢氏に 養子入りし、金沢権十郎と名乗ったとされる。 慶長五年の関ヶ原の戦いで小野寺家が改易されると、その所領は最上義光に与えられた が、金沢城の扱いは詳らかでない。翌六年(1601)、羽後へ移封となった佐竹家と最上家で 所領交換が行われ、平鹿郡が佐竹領となると、梶原政景が城を預かった。金沢は佐竹藩の 藩府候補地の一つとなったといわれるが、久保田城の築城が決まると、やがて一国一城令 により廃城となった。 <手記> 横手市街北方に位置する、比高100mほどの山が金沢柵跡です。金沢八幡宮境内および 金沢公園として整備されており、山上まで車で行けて駐車場やトイレも完備されています。 駐車場から登ればすぐに本丸と八幡宮の建つ二の丸の間の鞍部にでます。 本丸からは平安時代の遺物も検出されているそうで、金沢柵跡であることはほぼ間違い ないのでしょうが、現存する遺構は上述の通り戦国末期のものです。それも、小野寺氏や 六郷氏の一族が城主だっただけあって規模も壮大です。基本は、小野寺氏系の腰曲輪や 帯曲輪を多数連ねた構造ですが、本丸背後の五連堀切を初めとして、大きな堀切や竪堀も 散見されます。 面白いのは、佐竹氏の居城候補の一つとなったという点で、立地からいえば近世の藩府 として金沢城が適しているとはまったく思えません。ですが、佐竹氏の祖は後三年の役にも 参戦した義家の弟・義光なので、先祖の武功・武名にあやかろうとしたということも考えられ ます。実際、佐竹家は金沢城こそ使用しなかったものの、金沢八幡宮を篤く信仰し、しばしば 修改築したとされています。 というわけで、平安時代の城柵を訪れたつもりが、戦国末期の拠点城郭の遺構に感激する という、ちょっと変わった体験のできる城柵跡です。 |
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駐車場脇の説明板。 | |
兵糧倉跡。 | |
本丸下の鞍部。 | |
本丸のようす。 | |
本丸北東隅の土塁。 | |
本丸北西下の虎口状開口部。 | |
本丸背後の五連堀切の一つ。 | |
同上。 | |
同上。 | |
五連堀切を下から。 車道が通っています。 |
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五連堀切奥の曲輪。 | |
その脇の堀底道。 遺構かは不明です。 |
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二の丸切岸(左手)。 | |
二の丸の金沢八幡宮。 | |
二の丸前方の腰曲輪。 | |
腰曲輪の切岸面。 | |
北の丸を望む。 | |
北の丸のようす。 | |
北の丸と二の丸の間の堀底道。 | |
北の丸下の腰曲輪その1。 | |
その2。 | |
その先の腰曲輪群のようす。 | |
西の丸(安本館)の堀切。 | |
同上。 | |
西の丸(安本館)の主郭。 |