牛久城(うしく) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 岡見氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 : JR常磐線牛久駅よりバス 「根小屋」バス停下車徒歩3分 |
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<沿革> 大身領主岡見氏の居城とされる。岡見氏には大きく3家があり、それぞれ下総相馬氏の相馬 胤村の子師房にはじまる足高牛久氏、小田治孝の子治資にはじまる牛久岡見氏および、治孝 の弟義治の系統とされる。3家は協調関係にあり、牛久岡見氏が宗家とされた。牛久城は天文 年間(1531〜55)ごろに治資によって築かれたとみられているが、詳しいことは不明である。 岡見氏は小田氏に属していたが、天正元年(1573)の手這坂の戦いで小田氏治は佐竹義重 に大敗し、岡見治資も討ち死にした。跡を幼い治資の子治広が継いだが、小田氏は佐竹氏に 降伏を余儀なくされ、岡見氏は佐竹氏と結んだ多賀谷氏の攻勢に晒されることになった。 天正五〜八年(1577〜80)の間頃に岡見氏は北条氏を頼り、牛久城には在番衆が派遣され るようになった。これに伴い、牛久城に兵士駐留用の外郭が拡張整備されたものと考えられる。 同十五年(1587)には足高城が多賀谷重経に攻め落とされ、牛久城は直接攻撃を受けること になった。 その後も落城は免れたものの、天正十八年(1590)の小田原の役により岡見氏は北条氏と 運命を共にした。戦後、由良国繁が牛久周辺に5400石を与えられ、牛久城に入城した。国繁 は上野国の国人であるが、強制的に小田原城に籠城させられていた。しかし、国元にいた母 の妙印尼が豊臣方に協力して功を挙げたため、新たに所領を認められたのである。 元和七年(1621)、国繁の子貞繁が死去すると、その弟忠繁が跡を継いだ。しかし、幼年の うえに将軍お目見えを済ませていなかったため、所領は1千石に減らされた。このとき、牛久城 も手放したものと推測される。 寛永五年(1628)、山口重政が1万5千石で牛久藩を立藩した。重政のときの藩府については 定かでないが、2代藩主弘隆は寛文九年(1669)に牛久陣屋を建設した。遅くともこのときに、 牛久城は廃されたことになる。 <手記> 牛久城は牛久沼に臨む舌状の台地先端に位置しています。おそらく当時は三方を泥湿地に 取り囲まれていたものと思われ、城下町の名残とされる旧水戸街道牛久宿が城山から離れて いるのも、そのためでしょう。 城跡は公園化されているわけではありませんが、遺構が良好に残されています。主城域は 峰上に縦に並んだ2つの曲輪とその脇の曲輪の大きく3つから成っています。2つの曲輪のうち どちらを主郭とするかには小さな議論があるようですが、概ね南端の曲輪が本丸とされており、 私もそのように感じました。ですので、ここでも南端の曲輪を主郭、その北の曲輪を二曲輪と します。 主郭は南半分ほどが、開発によって削られているようです。ですが、虎口や土塁の一部など がよく残っていて、往時をうかがうには十分です。牛久城の見どころの1つは主郭と二曲輪の 間の空堀で、豪快に主郭の三方を囲っています。その東端の北辺の中途には畝が認められ るのですが、北条氏流の畝堀とするには数が圧倒的に足りず、どちらかというと仕切り土塁の ようになっています。かつてはもっと数が多かったのかもしれませんが、何とも判じかねます。 二曲輪は西下に三曲輪を従えていますが、両者の間に堀はなく、また主城域付け根の堀や 虎口と直接接しているなど、やはり防御面で主郭にやや劣っているように感じられます。他方 で、二曲輪の周囲には主郭よりも高い土塁がより広範に残っており、こちらを主郭とみる人は これを重要視したものと推測されます。 城内のもう1つの見どころは主城域背後の二重堀で、深々とした堀の向こうへは、喰い違い 状の2本の土橋を越えていくことになります。 主城域の北には、字中城と呼ばれる外郭部が広がっています。ほとんどが宅地や耕作地と なっていますが、その付け根である城中町との境に土塁と堀の痕跡が認められます。 牛久城は、大身領主岡見氏と後北条氏の合作ともいえる城で、遺構の残存状況も比較的 良好です。今後とも貴重な城跡として調査や整備が進められることを期待します。 |
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主郭のようす。 | |
主郭の虎口と土橋。 | |
主郭前の馬出し状曲輪。 | |
主郭堀のようす。 | |
主郭堀東端の仕切り土塁。 | |
二曲輪のようす。 | |
二曲輪の虎口。 | |
三曲輪の張り出し部土塁。 | |
三曲輪の土塁と主郭堀に挟まれた虎口。 | |
三曲輪虎口。 | |
三曲輪下の船溜まり状遺構。 | |
主城域背後の二重堀1条目。 | |
同2条目。 | |
外郭部付け根の堀跡と土塁跡。 |