石脇城(いしわき)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 今川氏か
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : JR東海道本線焼津駅からバスに乗り、
      「東益津小学校前」下車徒歩5分


       <沿革>
           江戸時代に編纂された『駿河記』によれば、文明年間(1469〜86)に駿河守護今川義忠
          が、伊勢新九郎盛時(北条早雲)を石脇に住まわせたとある。義忠の正室北川殿は盛時
          の姉ないし妹であるが、彼が駿河へ赴くのは同八年(1476)に義忠が戦死したことを受け、
          幼い北川殿の子龍王丸を補佐するためであったことから、義忠が与えたとするのは史実と
          合わない。義忠の従弟にあたる小鹿範満と義忠嫡男の龍王丸との間で家督争いが生じる
          と、北川殿と龍王丸は長谷川正宣を頼り、小川城へ逃れた。事態を重くみた室町幕府は、
          幕臣の盛時を下向させた。小川城は石脇から近いため、盛時が石脇城に入ったのはこの
          ときと推察される。すなわち、城は文明八年までに築かれていたものと考えられる。
           盛時の調停により、龍王丸の成人まで範満が家督を代行することになった。妥結を受け
          て、盛時はいったん帰洛したとされるが、この際の石脇城の扱いについては定かでない。
          しかし範満は、龍王丸が15歳になっても家督を返そうとしなかったため、長享元年(1487)
          に盛時は再び駿河へ下向し石脇城に入った。同年十一月には幕府の内意を得て駿府館
          襲撃し、範満を討った。龍王丸は今川氏親と名乗って家督を継承し、盛時は功績によって
          興国寺城を与えられたとされる。ただし、盛時が興国寺城に在ったことを示す一次史料は
          見つかっていないため、引き続き石脇城を居城としていたとする説もある。
           これ以降の石脇城の動静については不明である。


       <手記>
           東名高速日本坂PAのすぐ東に突き出た小丘が、石脇城跡です。大日堂と城山稲荷の
          ある頂上部が主郭で、その東端には土塁が残っています。丘の南端には城山八幡宮が
          鎮座し、その社殿が建つ塚もまた土塁とみられます。
           八幡宮境内の山頂側には、堀切にちょうどよいラインに溝状の参道が横切っています。
          ただ、城の造作かどうかは判然としません。焼津市のHPでは、八幡宮境内を三の曲輪、
          主郭と参道の間の鞍部を二の曲輪としていますが、二と三の間はこの溝状参道のみなの
          で、本当に分かれていたのかは曖昧です。
           基本的に、削平地と土塁を設けただけの古い形態の城といえるでしょう。小川城の甥を
          駿府の範満から守るための城と考えれば、ここに盛時が在城していたというのもうなずけ
          ます。逆に、氏親が当主となれば重要性は一気に下がると思われ、明応二年(1493)に
          盛時が伊豆の韮山城へ移るまでには、廃城となったものと推測されます。

           
 標柱の立つ登城口。
城山八幡宮。 
社殿が建つ塚は土塁跡か。 
 八幡宮境内のようす。
八幡宮境内脇の溝状の参道。 
位置的には堀切とも考えられますが、 
断言はできません。 
 二の曲輪から主郭を見上げる。
主郭の大日堂と城山稲荷。 
 主郭のようす。
 奥に土塁が見えます。
主郭脇の虎口状地形。 
 主郭からの眺望with新幹線。


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