山吹城(やまぶき)
 別称  : 隠れ城、萩倉ノ要害、大城
 分類  : 山城
 築城者: 金刺氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR中央本線下諏訪駅徒歩40分


       <沿革>
          諏訪大社下社大祝金刺氏によって、詰城として築かれたとみられているが確証はない。
         永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害(『当社神幸記』)」に
         拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた。この萩倉ノ要害について、
         一般的には山吹城を指すものと解されているが、砥川対岸の上の城を充てる説もある。
          昌春は、享禄四年(1531)に甲斐国人衆が反信虎連合を結成して反乱を起こした際に、
         (おそらく信虎方として)戦死した。これにより金刺氏は滅亡し、昌春の族孫とされる今井
         善政が武居祝と称して下社大祝の祭祀を継承したとされる。『日本城郭大系』では、武居
         氏が山吹城主となったとみているが、この武居氏とは今井氏を指すものと思われる。他方、
         天文十一年(1542)に信虎の子晴信が諏訪氏を滅ぼし、同年に諏訪の領有を巡って晴信
         と高遠頼継が争った際、昌春の子とされる堯存が頼継に同心して討たれたとも伝わる。
         昌春以下の金刺氏の系図は混乱しており、堯存が実在したかどうかは定かでない。もし
         したとすれば、善政の前に一時的に堯存が山吹城主であった可能性も考えられる。
          『大系』では、日根野高吉の諏訪入部(天正十八年(1590))まで存続したものと考えて
         いるが、論拠は不明である。したがって、廃城時期についても詳らかでない。


       <手記>
          山吹城は、眼下に砥川と旧中山道を望む丸山の支峰上に築かれた城です。金刺氏の
         居城とされる桜城からは直接望むことができないため、「隠れ城」の異名をもつとされて
         います。ただ、確かに桜城からは見えないものの、旧中山道筋や岡谷方面からは普通に
         望めるため、そこまで隠れているという印象はありません。
          隠れ城というのは、山吹城が桜城の詰城であり、ひいては「萩倉ノ要害」に比定される
         という立場からの見方を示していると思われます。私も、上の城と山吹城を比べるならば、
         後者の方が萩倉ノ要害にはふさわしいように考えます。わざわざ敵の目に晒されながら
         砥川を渡ってまで向かうほど上の城が要害性に優れているかといえば、とてもそうは思え
         ません。むしろ、桜城から敵の目に触れることなく山肌伝いに移動できる山吹城の方が、
         詰城としては妥当と思われます。
          城跡へは、諏訪大社下社春宮背後の慈雲寺から、桜の名所水月公園を通って、真裏
         まで林道が通っています。途中、城址東麓の沢沿いに、城址標柱が建っています。沢の
         両脇は休耕地のようで、立ち入り禁止のテープが張ってあるため、近寄って眺めることは
         できないようです。
          山吹城は、2つ実のサクランボのような形をしています。隣り合う2つの峰に遺構が展開
         しているわけですが、ここでは便宜上両者を東城、西城と呼んで区別することにします。
         双方とも、大きく2つずつの曲輪とそれを取り巻く腰曲輪から成っていますが、全体の主郭
         は、より高所に位置する東城にあるようです。東城の主郭のみ、囲繞する土塁が残って
         いて、また郭内には城址碑ではないようですが、石碑が置かれています。他方、東城の
         主郭・副郭間は切岸のみで堀がないのに対し、西城の曲輪間は空堀で明確に断ち切ら
         れています。
          双方の主副郭の周囲には、帯曲輪や腰曲輪が多数展開していますが、場所によっては
         不自然に細長く3段になっていたりして、後世の耕作地ではないかと疑われる所も少なく
         ありません。
          私が個人的にもっとも注目しているのが、2条堀切を越えて城内に入る虎口です。諏訪
         には、尾根筋を堀切で断ち切ってとりあえず城とする手法が多く見受けられるのですが、
         たいていその先は普通に土塁を越えて城内に至ります。ですが、山吹城の場合は、城内
         へ侵入する前に、2つの虎口の選択を迫られます。2つの虎口の間はそれほど離れては
         いませんが、張り出しの曲輪によって隔てられています。その付け根には、サクランボの
         別れ目の曲輪があり、分散された敵兵を狙い撃ちにする工夫がなされています。ただし、
         虎口が2ヶ所ということは、取りつく敵兵も2倍になるわけですから、それなりに対応する
         城兵の数と熟練度がなければ、この工夫はかえって裏目に出てしまいます。このことは、
         山吹城が金刺氏以降の改修を受けている良い証左となるといえると思います。
          総合的にみて、山吹城は金刺氏の居城とされる桜城よりも規模が大きく、縄張りも技巧
         的といえます。したがって、武田氏の改修を受けてその後も継続使用されたことは明らか
         であり、翻って山吹城が萩倉ノ要害であったか否かは、遺構の表面観察上からは不可能
         です。
          すると今度は廃城時期が問題となるわけですが、私は山吹城が天正十八年まで現役で
         あったとする見方には否定的です。少なくとも、織田氏が武田氏を滅ぼした同十年には、
         山吹城はその意義を失っていたものと考えられます。早ければ、武田氏が信州内の脅威
         をほぼ払った1560年代前半には、役目を終えて廃されていたものと推測されます。
          いずれにせよ、諏訪湖北岸地域では最大の規模を誇る城跡ですから、今後もっと注目を
         浴びてよい存在だと思います。

           
 山吹城址標柱。
 近づけないのでカメラのズームで撮影。
背後の2条堀切その1。 
 その2。
堀底から城内への虎口を望む。 
中央の土塁状高まりを中心に左右に2ヶ所。 
 
 2つの虎口を望む(手前と奥に1つずつ)。
 その間には張り出し状の出曲輪。
西側の虎口。 
 東城副郭の切岸。
東城副郭のようす。 
 東城副郭から主郭の切岸を望む。
東城主郭のようす。 
 東城主郭の土塁。
東城の腰曲輪を望む。 
 西城主郭と副郭の間の堀切。
西城の腰曲輪。 


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