上の城(かみの)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 金刺氏か
 遺構  : 曲輪、堀、切岸
 交通  : JR中央本線下諏訪駅徒歩60分


       <沿革>
          諏訪大社下社大祝金刺氏の城とされるが、築城の経緯などは不明である。地元の伝承に
         よれば金刺家臣山口氏が預かっていたとされるが、同氏についても詳細は不明である。
          永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害(『当社神幸記』)」に
         拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた。この萩倉要害がどこにあった
         かは諸説あり定かでないが、この上の城ないし下の城に比定する向きもある。
          信虎の子晴信が諏訪を占領すると、武田家臣横田備中守高松が居城したとされる。高松
         は天文十九年(1550)の砥石崩れで戦死したが、下の城がこのときまで存続していたかも
         含めて、城のその後については詳らかでない。


       <手記>
          上の城は、砥川と福沢川に挟まれた細長い二ツ山の支峰上にあります。さらに南に少し
         下った支尾根上には、上の城と対とされる下の城があります。下の城南西麓から、下の城
         を経由して、上の城直下まで立派な山道が続いています。登り道からスライド道に変わって
         しばらくすると、「↑上の城址」と書かれた標柱があります。ところが、ここから上を見上げる
         と、笹藪に覆われていてちょっと登れそうにありません。そこで、標柱の少し手前の斜面が、
         ちょうど間伐が終わって間もない感じで見通しが利いていたため、ここを直登することにしま
         した。登りきったところがちょうど主郭下だったようで、ビンゴ!といった感じでした。
          上の城は、主郭とそれを取り巻く帯曲輪から成っています。主郭には、先の標柱とは別に、
         立派な城址碑が据えられています。『日本城郭大系』には、三段の帯曲輪と三方をめぐる
         大きな空堀があるとされていますが、私が見た印象とは合致しないため、これらが具体的
         にどこを指しているのか不明です。あるいは、私のいう帯曲輪が大系の示す大空堀なのか
         もしれません。
          この帯曲輪は、主郭の南東隅付近で明確に横堀状になっており、私の目にはむしろ虎口
         を形成しているように見えました。そして、帯曲輪は主郭をただ1周するのではなく、螺旋状
         に廻っていて、虎口の下で掛け違いとなります。『大系』の三段の帯曲輪とは、この螺旋状
         遺構を指したものかもしれません。
          上の城は、トーチカ状の城であるといえますが、他方で前後の尾根筋には堀切が見受け
         られません。先の標柱から山道をさらに奥に進むと土橋状の鞍部があり、ここに堀切が設け
         られていた可能性は高いと思われます。ただ、ここは上の城からは見えない位置なので、
         直接上の城を守るための堀切とはいえません。
          上の城(および下の城)については、その役割が一番のポイントといえるように思います。
         上の城を萩倉ノ要害に充てる説については、『大系』でも指摘されているとおり、山吹城
         すでにあったとすれば、わざわざ川を渡って上の城まで逃げ込むメリットはないように思われ
         ます。
          個人的には、当時下の城・上の城を経由して和田峠へ向かう脇往還があり、これを押さえ
         るために築かれたのではないかと考えています。現在も、諸地図には先の土橋状鞍部から
         さらに奥へ進み、旧中山道の樋橋へ抜ける山道が記入されています。また、樋橋から真北
         上って峠を越えると、小笠原氏の居城林城直下を流れる薄川の源流に出ます。したがって、
         上の城・下の城の稜線に間道が走っていたとしても、不思議ではないように感じます。むしろ
         その方が、土橋状鞍部や『大系』に記されているさらに奥の飯綱神社、そして2条堀切(場所
         不明で未確認)の存在を説明しやすいと考えられます。
          さらに、『大系』には上の城より下の城の方が「防備は堅固」とありますが、私はむしろ上の
         城の方が技巧的で新しく改修された城であるように感じました。たとえば、先に挙げた螺旋状
         の縄張りは、武田氏の城にわりとみられる構造です。また、横堀を兼ねた虎口の工夫も金刺
         氏以降の改修を受けたと想像するに十分です。それに対し、下の城は諏訪の在地領主の城
         の特徴を残すひとつ古いタイプのもののように見受けられます。したがって、ますます勝手な
         私見として、同じく武田氏の改修を受けたものと考えられる対岸の山吹城とともに、上の城は
         中信(松本平&佐久平)方面を睨む城として、武田氏に取り立てれらたものと推測しています。
         『大系』では、山吹城については武田氏時代を通じて現役であったようにみていますが、私は
         遅くとも武田氏が信州をほぼ固めた1560年代前半ごろには、両城とも役目を終えていたもの
         と考えています。

           
 上の城遠望(右手の頂部)。
 左手尾根の1つ向こう側の支尾根に下の城があります。
上の城址標柱。 
 上の城址碑。
主郭のようす。 
 主郭南東隅下の横堀。
 虎口跡か。
同虎口状横堀を下から。 
 主郭をめぐる帯曲輪。
主郭の切岸。 
 帯曲輪の切岸。
上の城北方の土橋状鞍部。堀切跡か。 


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