淀古城(よどこ) | |
別称 : 淀城、藤岡城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 畠山政長 | |
遺構 : なし | |
交通 : 京阪本線淀駅徒歩10分 | |
<沿革> 淀城には中世のものと江戸時代のものと2つがあり、便宜上、江戸時代の淀城に対して 中世の淀城を一般的に淀古城と呼びならわしている。近世淀城は淀古城の廃城後に築か れたもので、両者が併存していたことはないため、ここでは以下単に「淀城」と表記する。 『東院年中行事記』の文明十年(1478)の記録に、神保与三左衛門尉が淀へ入部したと ある。神保氏は畠山氏の家臣であり、同年、畠山政長が山城国守護に就任している。この ことから、淀城は畠山氏の郡代役所として築かれたと考えられている。 永正元年(1504)、摂津国守護代薬師寺元一は、守護代を解任しようとした細川政元に 謀反を起こし、淀城に立て籠もった。しかし、弟の長忠らに攻められて落城し、元一は捕え られた後に自害した。 やがて細川氏に代わり三好氏が台頭すると、三好長慶の命によって細川氏綱が淀城主 となった。氏綱は、表向きは長慶の主筋にあたり管領でもあったが、長慶の傀儡に過ぎず、 淀城には監視が付いていたといわれる。永禄六年(1563)に氏綱は淀城で病死し、長慶の 養子義継が城主となった。義継が三好氏当主となると、淀城は松永久秀の属城となった。 三好家中では次第に三好三人衆と久秀の対立が先鋭化し、永禄九年(1566)には三人衆 勢が淀城を攻略した。城主には、三人衆の1人三好長逸の臣金子某が任じられた。 永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、淀城も織田軍によって攻め落とされた。 その後しばらく動静が不明な時期が続くが、天正元年(1573)に将軍足利義昭が槇島城で 反信長の兵を挙げると、これに呼応した三人衆の1人岩成友通が、淀城に立て籠もった。 勝龍寺城主細川(長岡)藤孝らの軍勢に攻められた友通は、奮戦するものの味方の諏訪 飛騨守らの内応によって敵中に孤立し、藤孝家臣下津権内と組み合いの末に堀へ落ちて 水中で討ち取られた。 淀城は戦後また打ち棄てられたようで、天正十年(1582)の本能寺の変後に、明智光秀 が羽柴秀吉との合戦(山崎の戦い)に備えて城を修築したことが記録にみられる。 天正十七年(1589)、淀城は羽柴秀長によって改修されたうえで秀吉の側室茶々に与え られ、茶々はこの城で鶴松を生んだ。茶々が「淀殿」あるいは「淀君」と呼ばれるのは、この 城に住していたためである。 文禄元年(1592)、木村重茲が18万石で淀城主となった。しかし、重茲は同四年(1595) の豊臣秀次事件に連座して自害を命ぜられ、淀城も廃城となった。 <手記> 淀古城は、近世淀城の北、納所地区にありました。往時は両城の間に宇治川や巨椋池 からの水が流れていました。今の妙教寺付近が中心部といわれ、寺とその背後の墓地は 西側を除く三方に対してやや高い位置にあります。 ただし、これといった遺構は残っておらず、「北城堀」「南城堀」といった字に城の存在を 偲ぶのみです。妙教寺の境内に、標柱程度の小さな城址碑があります。 |
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淀古城址とされる妙教寺。 | |
妙教寺境内の城址碑。 |