淀城(よど)
 別称  : てん(さんずいに奠)城
 分類  : 平城
 築城者: 松平定綱
 遺構  : 石垣、水濠、天守台
 交通  : 京阪本線淀駅下車


       <沿革>
           元和九年(1623)、将軍徳川秀忠の命により松平定綱が3万5千石で淀藩を立藩した。
          定綱は淀古城の対岸に新城の建造を開始し、寛永二年(1625)にほぼ完成した。淀城
          天守には当初伏見城の天守が移築される予定であったが、実際には二条城に移される
          ことになり、代わって二条城の天守が淀城に移築された。しかし、伏見城の天守に対して
          二条城天守が小さかったため、天守台に余白が生じてしまった。そのため天守台の四隅
          に二重の櫓を配し(姫路城からの移築とも)、それらを多聞櫓でつないで天守を取り囲む
          という特異な形態となった。さらに淀城の特徴として、城の西と北側に水車が設けられ、
          桂川の水を城内に引き入れていた。
           寛永十年(1633)、定綱は大垣藩6万石へと加増転封となり、永井尚政が古河藩から
          10万石で淀藩に入封した。尚政のもとで、城下町や屋敷の整備がなされた。永井家は、
          尚政の子尚征の代に宮津藩へ転封となった。
           その後、石川家3代、戸田松平家2代、大給松平乗邑と目まぐるしく城主家が交代した。
          享保八年(1723)に稲葉正知が入ると、以後明治維新まで稲葉家が続いた。宝暦六年
          (1756)には、落雷により天守などの建物が焼失した。天守と本丸御殿は、再建される
          ことはなかった。
           慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いに際し、藩主稲葉正邦は老中であったことから、
          淀藩は旧幕府軍として藩兵を出した。しかし、敗れた旧幕府軍が淀城で態勢の立て直し
          を図ろうとしたところ、淀藩は彼らの入城を拒否した。旧幕府軍は淀城下で新政府軍を
          迎え撃つことになったが、再び敗れて八幡へと退いた。このときの戦火で、城下町や
          城内に火が回った。正邦は江戸にいたため、淀藩の新政府への恭順は藩主抜きでの
          決定であった。正邦は老中を辞して淀へと戻り、恭順の態度を貫いたまま明治維新を
          迎えた。


       <手記>
           淀城は、桂川と宇治川そして巨椋池からの流水が合流する地点にあり、三方を水に
          囲まれた要害の地であるとともに、水運の要所でもありました。今では巨椋池の干拓
          などによって周辺の地形は大きく変わっているため、往時のようすをうかがうのは困難
          かもしれません。
           京阪本線淀駅の眼前に、本丸の石垣と水濠が残されています。淀城の特徴である
          水車の復元計画も持ち上がっているようですが、今のところこの満々とした水濠だけが、
          水を駆使した城としての面影を残しています。

           
 淀駅ホームから天守台(右手前)を望む。
本丸西側の石垣と水濠。 
 本丸内の淀城址碑。


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