龍ヶ谷城(りゅうがい) | |
別称 : 吉田之楯 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 久長但馬守か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 西武秩父線西武秩父駅または 秩父鉄道秩父駅からバス。 「馬頭尊前」下車徒歩20分 |
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<沿革> 戦国時代に久長但馬守によって築かれたと伝わるが、久長氏の出自や詳しい築城年代 などについては定かでない。また、小指将監が副将を務めたとされる。 永禄十二年(1569)に甲相同盟が破綻すると、土坂峠や志賀坂峠を越えて奥秩父へと 武田勢がたびたび侵入するようになった。同年七月には武田方の兵が夜中に土坂峠から 入り、龍ヶ谷城のすぐ西の阿熊へ達した。北条方の在地領主阿佐美玄光が早朝にこれを 見つけてすぐに「吉田之楯」へ伝えたことにより、守りを固めることができたとして鉢形城主 北条氏邦から阿佐美氏に感状が与えられている。一般にこの吉田之楯が龍ヶ谷城を指す ものとされるが、確証があるわけではない。このときは、三山谷の戦いで北条勢が武田勢 を駆逐している。元亀二年(1571)二月には阿熊の西の石間谷で合戦があり、同年十月 には武田方が阿熊に高札を立てているが、龍ヶ谷城で戦いがあったかは詳らかでない。 同年中に甲相同盟が復活し、秩父の緊張状態はひとまず解消したものと拝察される。 天正十八年(1590)の小田原の役では、鉢形城の開城を受けて降伏し、役後に但馬守 は上杉景勝に仕官し、将監は当地に土着したと伝わる。 <手記> 龍ヶ谷城は赤平川に向かって突き出た山稜上にあります。徒歩の場合は先端の集落 から尾根伝いに登るようですが、車があると林道伝いに真裏の尾根まで行くことができ、 フラットに城内に至ることができます。 最後尾から主郭までは3つの堀切がありますが、尾根に幅があるため、堀切というより は空堀といった感じで、堀と堀の間が曲輪となっているのが特徴です。空堀には横矢や 張り出し土塁が付属していて凝った造りになっているのですが、他の諸サイトでも指摘 されているとおり、造作は未熟で未完成だった可能性が考えられます。技術や規模の面 でも明らかに北条氏の意向を踏まえていると思われます。 主郭には櫓台にしては大きすぎる上段土塁が付属しています。その先は1段下がって 腰曲輪が伸び、さらにその下には最先端の堀切があります。この堀切は根本側のものと 異なり、岩盤を断ち割った力業のものとなっています。 さて、上述の歴史は、龍ヶ谷城=吉田之楯であることが前提です。しかし、現在に残る 龍ヶ谷城は、秩父の一介の在地領主が守るにはいささか大きすぎるように思われます。 ここで、龍ヶ谷城と阿熊の間に寺山砦があります。龍ヶ谷城と比べるとずっと小さいです が、2〜3百人程度の敵を防ぐなら十分そうにも見えます。 そこで勝手な私見ですが、吉田之楯=寺山砦というのもあり得るのではないかと考え ています。すなわち、永禄十二年時点では龍ヶ谷城はまだなく、武田方の侵攻を受けて 築城が開始されたものの、2年後の元亀二年に甲相同盟が復活したために必要なくなり、 普請が中断されたというものです。 |
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龍ヶ谷城遠望。 | |
最後尾の空堀。 | |
同上。手前は土橋か。 | |
最後尾から2条目の空堀と土塁。 | |
同空堀に伴う横矢土塁。 | |
同空堀の端部。 | |
最後尾から3条目、主郭に伴う空堀。 | |
同上。 | |
同空堀に付随する張り出し土塁。 | |
主郭内のようす。 | |
主郭隅の上段土塁。 | |
主郭先端下の腰曲輪。 | |
最先端の堀切。 |