高見城(たかみ) | |
別称 : 四津山城、四ツ山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 石井政綱か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 東武東上線・JR八高線小川町駅または JR高崎線・秩父鉄道熊谷駅よりバス。 「上横田」バス停下車徒歩25分 |
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<沿革> 『青木家家譜』によれば、青山城主青木山城守氏久の家臣石井九郎右衛門政綱が 治承四年(1180)に居住していたとされる。ただし、同書の由来や内容には裏付けが なく、高見城の記述についても疑わしいといわざるを得ない。 現地説明板によれば、文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣 衆」とあることから、このときまでには築かれていた可能性があるとされる。『新編武蔵 国風土記稿』では、長享元年(1487)に没した増田四郎重富が住んでいたとしている。 増田氏は古河公方足利氏家臣で、出自は秩父党とも児玉党ともいわれるが、定かで ない。本貫地は深谷市上増田とされるが、前掲の道灌書状の内容に鑑みれば、文明 八年(1476)に始まる長尾景春の乱に際し、足利成氏が景春との連携を図って重富を 高見城に入れたものと推測される。 長享二年(1488)十一月、長享の乱におけるいわゆる「長享三戦」のひとつ高見原の 戦いが、高見城東麓付近で行われた。この戦いでは、山内上杉顕定の拠点鉢形城を 攻め落とさんとする扇谷上杉定正を、高見城北東の今市付近に布陣した顕定が迎え 撃ったものの、敗れて撤退した。このとき、古河公方足利政氏は扇谷上杉氏側で参戦 していたが、『日本城郭大系』では、高見城は山内上杉氏の支城であったとしている。 事実とすれば所属が替わった経緯が気になるが、論拠は不明である。また、重富は 同戦いで討ち死にしたとする見方もある。 『関八州古戦録』によれば、天正十八年(1590)の小田原の役に際し、北条氏邦の 手勢が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃れたとされる。 <手記> 高見城は、市野川と後谷津川に囲まれた丘陵地帯にある半独立山上の城で、別称 の四津山はその名の通り4つの頂上をもっているように見えることからついたものです。 半独立であることや周囲により高い山がないこと、そして円錐状の美しい斜面をもつ ことから、険しい山容に見えます。ですが、山頂にある四津山神社までの参道が伸び ているので、登るのにほとんど苦はありません。 城は4つの峰のうち3つに跨って展開しており、神社境内となっている南端の曲輪が 本郭とされています。ただし、その北に並ぶ二の郭、三の郭もそれぞれ独立性が高く、 前者は二重堀切と城内でもっとも堅固な喰い違い虎口をもち、後者は帯曲輪を備えた 城内最大の曲輪で、兵量で反撃するのに適しています。したがって、後北条氏の時代 まで使われたとすれば、主郭が北端から南端へ(あるいは逆に)移ったという可能性も 考えられるのではないかと思われます。 参道の階段を真っ直ぐ登ると、左手に犬走り跡とあるのが見えます。『大系』ではこれ を「興味深い形成」としていますが、第一義的にはその先にある腰曲輪への通路であり、 その中途にはアップダウンもあるので、これを犬走りと呼ぶには疑問が生じます。 一旦右に折れた参道の先には「四津山公園」と書かれた平場があり、これも腰曲輪 の跡と思われます。ここから参道は、男坂と女坂の二手に分かれます。前者は、山頂 まで一直線の階段で、後者は山肌を折り返しながら登る坂道です。当時の登城路は、 諸資料にもある通り女坂だったとみられ、その行き着く先は二の郭と本郭の間の堀切 になります。 城内は見学しやすく、とてもよく整備されており、とくに境内からの眺望は格別です。 これだけ周囲に睨みが効き、かつ眼下に旧鎌倉街道という要衝にもあることから、高見 城が後北条氏時代まで存続していなかったようには、どうも考えられません。おそらく、 今目にしている遺構は最終的には北条氏によって改修されたものと思われます。 |
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高見城址遠望。 | |
本郭の四津山神社。 |
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本郭虎口。 | |
本郭から北東方面の眺望。 | |
同じく南方の眺望。 | |
本郭と二の郭の間の二重堀切に挟まれた曲輪。 | |
二重堀切その1。 | |
その2。 | |
二の郭のようす。 | |
二の郭の喰い違い虎口。 | |
同虎口を外側から。 | |
二の郭と三の郭の間の堀切。 | |
三の郭下段。 | |
同上段。 | |
三の郭北の堀切。 | |
本郭下の四津山公園平場。 腰曲輪か。 |
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犬走り跡か。 | |
犬走り跡先の腰曲輪。 | |
同腰曲輪下のもう1段の削平地。 |