青山城(あおやま)
 別称  : 割谷城
 分類  : 山城
 築城者: 青木氏宗か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : 東武東上線・JR八高線小川町駅よりバス
       「愛宕公園下」バス停下車徒歩30分


       <沿革>
           『日本城郭大系』によれば、天慶三年(940)の天慶の乱後、藤原成文の後裔氏宗が
          青山城に拠って青木氏を称し、その後は鎌倉幕府ついで関東管領に代々仕えたことが
          『青木家家譜』にみられるとある。ただし、10世紀以前に藤原成文なる人物の実在は
          確認できず、天慶前後頃に藤原(青木)氏宗の名はみられない。そもそもこの『家譜』
          の青木氏が、後世に残るどの青木氏であるのかも定かでなく、内容についても疑問を
          抱かざるを得ない。
           『関八州古戦録』には、永禄六年(1563)に北条氏が松山城を攻め落とした際に、
          「青山腰越の両砦」とともに、上杉謙信に奪い返されないよう堅固に守らせたとある。
          したがって、このころまでには築かれていたものと思われるが、築城主や築城の経緯
          については伝わっていない。廃城時期についても不明である。


       <手記>
           青山城は、槻川とその支流矢の口川に挟まれた山稜の中途のピークに築かれた城
          です。前方により高い仙元山があり、ひとつその奥に隠れたような位置に選地されて
          います。東西山麓および公園となっている仙元山から城跡に登ることができますが、
          車をお持ちであれば東麓の割谷地区からのルートをお勧めします。ここには、おそらく
          地名の由来となっている板碑石材の産出遺跡があり、その見学用と思われる駐車場
          もあります。ただ、1つ注意なのは、遺跡入口から登ってしまうと道が城跡まで続いて
          いないので、その先の城址入口の案内をしっかり見つけてから登山道に入ることです。
           城は逆V字型(現地説明板ではコの字型、『大系』ではT字型)をしたピークの頂上に
          主郭を、その両翼にそれぞれ二の郭と三の郭を配した構造となっています。それぞれ
          の曲輪は堀切で断絶され、独立性をもたせています。主郭の北には出桝形状の虎口
          が張り出し、主郭自体もほぼ方形の区画を2段に並べた形となっています。二の郭、
          三の郭の虎口にも工夫がみられ、おそらく最終的な改修者は後北条氏であったものと
          拝察されます。ただし、規模はそれほど大きいものではなく、東の小倉城ほどは重視
          されていなかったものと思われます。
           青山城の特徴は、前述の通りなぜ仙元山ではなくその背後にあってやや低い峰に
          選地したのかという点にあるでしょう。ただ、この疑問は東と西にある小倉城と腰越城
          との関連という視点で説明がつきます。すなわち、東西両城を結んだまさに直線上に、
          青山城は位置しています。青山城の東側を越える峠道は、両城を最短でつなぐルート
          でもあります。したがって、直接的にも烽火を用いた間接的な連絡においても、青山城
          はもっとも効率的な場所にあるといえます。加えて、現在八高線が走る西麓は、路線
          のルートそのままに、北条氏邦の居城鉢形城と、氏照の居城滝山城および宗家居城
          小田原城を結ぶ街道筋の要衝でもあります。
           最後に注意点なのですが、仙元山公園は競技自転車の人気スポットらしく、市街地
          でもよく目にします。なかには青山城址まで南下してくる不届者もいるらしく、私もすれ
          違いました。当然虎口付近では危険ですし、なにより遺跡破壊になるので、なんとか
          やめてほしいところです。


           
 主郭上段のようす。
主郭下段のようす。 
 
 主郭上段の土塁と説明板。
主郭下の出桝形状虎口。 
 出桝形状虎口外側の空堀。
主郭の上段と下段を分ける土塁。 
 主郭と二の郭の間の堀。
二の郭のようす。 
 二の郭下の堀と帯曲輪。
主郭と三の郭の間の堀切。 
 三の郭のようす。
三の郭外側の堀切。 


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