湯坂城(ゆさか)
 別称  : 湯坂城山、湯本城
 分類  : 山城
 築城者: 大森氏か
 遺構  : 堀、土塁、削平地
 交通  : 箱根登山鉄道箱根湯本駅徒歩25分


       <沿革>
           駿河国駿東郡の大身領主大森頼春は、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱での功績に
          より、箱根・足柄を越えて酒匂川にいたる一帯の支配権を与えられた。湯坂城はこれ以降に
          大森氏によって築かれたとみられているが、確証はない。
           15世紀末に大森氏が北条早雲(伊勢宗瑞)に滅ぼされると、湯坂城も北条氏の手に帰した
          と推測される。湯坂城の歴史は定かでないが、天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が
          滅亡するまで存続していたものと考えられている。

       <手記>
           湯坂城は早川と須雲川の合流点に突き出た、箱根湯本を見下ろす細長い尾根の先端近く
          にあります。城を抜けて尾根筋に登っていく湯坂道は鎌倉古道とも呼ばれ、江戸時代に入る
          までは東海道の主要ルートの1つでした。今はハイキングコースとして整備されていて、意外
          と登山客の多い道です。とはいえ、城跡目当ての人はやはり珍しいようです。
           城は西の付け根側から2つの中心的な曲輪が並んでいて、その東に構造のやや不明瞭な
          曲輪群が広がっています。一般的には最西端の曲輪を第1郭、その隣を第2郭としています。
          その東の曲輪群については、3〜5郭くらいまで番号をふっている例もみられますが、1・2郭
          に比べて造作が曖昧なので名前分けすることにあまり意味が感じられません。なので、ここ
          ではひっくるめて東外縁部と呼ばせていただきます。
           麓から登って最初にたどり着くのは、この外縁部です。虎口や堀跡や土塁に見える地形が
          散見されるのですが、笹薮に覆われているのと曲輪形成が明らかに未熟なので全体の構造
          把握は困難です。
           1郭と2郭は、どちらも前後を堀切で断ち、土塁で囲んできちんとした曲輪に仕上げられて
          います。特徴として、2曲輪とも北辺には土塁が設けられておらず、また堀切沿いの土塁が
          大きく張り出していて直行できないようになっていることが挙げられます。この点は、湯坂城
          が第一に街道監視・封鎖を目的としていることを如実に示していると思われます。他方で、
          土塁が大きな顔をしている分、曲輪の面積がかなり狭くなっています。北辺に土塁がない
          のもそのためと拝察されますが、それでも城を守るとなれば手狭感がぬぐえません。そこで
          私見ですが、未完成のように見える東外縁部は兵の駐屯スペースとして小田原の役に備え
          て増設された部分なのではないかと考えています。もともとは関所に近い役割の城だった
          のでそれほど兵数は必要なかったけれど、豊臣家との緊張が高まると防衛拠点として利用
          する可能性が生じ、城の守備に足りるだけの兵力を駐留させるために東側に広めの曲輪を
          増築したとすれば、つじつまは合うように思うのです。
           そもそも湯坂城は史料に明確には現れず、遺構や立地からその経歴を推測するしかない
          のが現状です。相駿をまたぐ峠道上の城というのは、浜居場城矢倉沢定山など大森氏
          にはよく見られる選地です。したがって、湯坂城も同氏が築いたとする推定は十分成り立ち
          ます。他方で、今日に残る遺構は規模が大きく、構造などからみても後北条氏の時代まで
          使われていたと考えるのが妥当でしょう。

           
 東外縁部の(おそらく)東端の土塁。
東外縁部の堀状地形。 
 同じく土塁&堀状地形。
東外縁部の削平地。 
 第2郭と東外縁部の間の堀切。
第2郭のようす。 
 第2郭西側の堀跡と土塁。
 旧道は土塁の外側を回っていたと考えられています。
 城跡説明板。 
 ハイキングコースが貫通する第2郭の土塁。
第1郭西側の土塁。 
同じく旧道は外側を迂回しています。 
 第1郭の土塁上平坦部。櫓台か。

 
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