浜居場城(はまいば) | |
別称 : 内山の城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大森氏頼 | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土塁、櫓台、虎口 | |
交通 : JR御殿場線山北駅よりバス 「内山」または「平山」バス停下車徒歩90分 |
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<沿革> 『新編相模国風土記稿』によれば、「古くは大森寄栖庵の持城」であったと伝えられる。 寄栖庵とは大森氏頼のことであり、氏頼の父頼春のときに、大森氏は駿河国駿東郡から 相模国足柄下郡へと進出した。永享十年(1438)には、氏頼の弟憲頼が浜居場城北東の 河村城を攻め落としており、浜居場城はこれ以前には築かれていたものと推測される。 大森家臣室伏氏の子孫に伝わる『室伏系図』には、室伏土佐守義安が「内山鵜頸両通 城主」とある。この「鵜頸」の城とは春日山城、「内山」の城は浜居場城を指すものと考え られている。 15世紀末に大森藤頼が北条早雲(伊勢宗瑞)に逐われると、浜居場城も北条氏の支配 するところとなった。北条氏時代には重臣松田氏を城将として、須藤源次郎・村野安芸守・ 小澤孫七郎の3人が城番として、交代で城に詰めていた。浜居場城と足柄峠の間の通行 は禁止され、昼夜を問わず通過しようとする者があれば、捕えて小田原へ報告するように 定められていた。これらのことは、天正九年(1581)に出された『はまいは掟』に記されて いる。 天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、浜居場城も役目を終え廃城 となったものと推測される。 <手記> 浜居場城は、矢倉岳の東に丸々と聳える高山のピークにあります。標高約700m、比高 でも500mほどあり、後北条氏の城としては特異な高さにあります。この異様な高さの謎は、 先の『掟』にあるように足柄城との関連で考えることで解決できます。すなわち、足柄越え ルートの1つに阿弥陀尾砦から矢倉岳北面の山伏平を抜け、浜居場城を通って内山へと 下る脇往還があり、このルートを押さえるために築かれた城と拝察されます。戦闘や所領 の経営ではなく、峠越えの街道封鎖の為の城ということから、このような人里から離れた 高所に城番を配して監視させたということでしょう。こうした目的を鑑みれば、浜居場城は 広義の足柄城に含まれるものとみることもできます。後北条氏の城としては珍しい比高の 高さも、同様に同氏が得意とした峠の城に類するものと考えることで納得がいきます。 城は、峰のピークの東端と西端に遺構が集中しています。『日本城郭大系』では前者を 「本城郭群」、後者を「西郭群」としているので、ここでもそれに従います。東側の本城郭群 はゾウリムシ型の本城郭を基調とした、ほぼ単郭に近い構造です。本城郭の四周は土塁 と空堀が廻らされ、北と西には堀を挟んで櫓台と呼ばれる小スペースがあります。対して、 西郭群は連続した虎口を基調としています。西郭の西端部には、まず堀切と土橋があり ます。土橋を越えると急崖となり、2〜3の喰い違い虎口が連続しています。このほかには 特段の曲輪形成は認められません。そして、西郭群と本城郭の間の頂上部一帯が自然 地形のままで曲輪形成されたようすがないことも、重要なポイントといえます。このことは、 浜居場城がつとめて戦闘用の城ではなく、街道監視用の城であったことを如実に語って いると思われます。 さて、浜居場城は比高差が600mほどもある上に、これをバカ正直にほとんど麓から登ら なければなりません。公共交通機関を利用するなら麓の集落のバス停から、車でも山麓 の「21世紀の森」の駐車場から歩くことになります。21世紀の森は中腹の馬場跡とされる 広場まで林道が通っているのですが、幅も舗装も問題ない道路なのに、わざわざ鉄扉を 設けて一般車両を締め出しています。さらに、園内には公園に関する標識は嫌というほど あるのですが、城に関する標識はまったくといってよいほどありません。ですから、600m ほどの山を、自分が歩いている道が正しいかも分からずにひたすら登り続けなければなり ません。いつ着くとも正しい道かも分からない山道を延々と歩くので、足もさることながら 精神的に追いつめられる城跡です。 |
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浜居場城址を21世紀の森駐車場より望む。 | |
浜居場城址標柱。 | |
浜居場城址説明板。 | |
本城郭南西の竪堀。 | |
本城郭北の北櫓台。 | |
本城郭東の堀と土塁。 | |
本城郭西の堀と土塁。 | |
本城郭西の西櫓台。 | |
西郭群西端の堀切と土橋跡。 | |
西郭群の喰い違い虎口跡。 |