会津若松城(あいづわかまつ)
 別称  : 若松城、鶴ヶ城、黒川城、(東)黒川館、
      小高木館
 分類  : 平山城
 築城者: 蘆名直盛
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口
 交通  : JR会津若松駅からバスに乗り、
      「鶴ヶ城入口」下車徒歩5分


       <沿革>
           三浦氏流蘆名氏の7代・蘆名直盛は、康暦元/天授五年(1379)に会津へ下向し、若松城北西の
          小館(古館/西黒川館)を拠点としていたが、至徳元/元中元年(1384)に若松城の地に東黒川館
          を築いて移ったとされる。天文七年(1537)に焼失し、同十二年(1542)までに復興・拡張され、その
          ころに黒川城と呼ばれるようになったともいわれる。
           天正十七年(1589)六月五日の摺上原の戦いで蘆名義広が伊達政宗に敗れると、勢いを駆った
          伊達勢は会津盆地へなだれ込み、義広は抗戦不可とみて実家の佐竹家へ落ち延びた。同十一日、
          政宗は無血で黒川城に入り、新たな居城と定めた。このとき、伊達家臣らは黒川城の粗末さを見て
          早々に普請するよう提言したものの、政宗は関東へ侵出するまでの当座の拠点なので無用と返答
          したとする巷説がある。
           翌天正十八年(1590)、奥州仕置に際して豊臣秀吉が八月九日に黒川城を巡見し、同十二日に
          出立している。このとき、旧蘆名領は政宗から召し上げられ、蒲生氏郷に新封として与えられた。
          翌年の葛西大崎一揆や九戸政実の乱などを経て、氏郷は文禄元年(1592)に黒川城の大改修に
          着手した。城名を蒲生家の家紋にちなんで鶴ヶ城と、町名を若松と改め、翌二年(1593)五月には、
          七重の天守をもつ近世城郭へと変貌を遂げた。
           氏郷は文禄四年(1595)に数え40歳の若さで世を去り、跡を子の秀行が継いだが、大領国の家中
          統制に失敗して蒲生騒動を引き起こした。その結果、慶長三年(1598)に蒲生家は宇都宮18万石
          へ大幅に減転封され、代わって越後の上杉景勝が120万石で入封している。
           慶長五年(1600)、景勝は直江兼続に神指城の築城を命じたが、秀吉死後に台頭した徳川家康に
          上洛して無断改修の申し開きをするよう言い渡された。これを拒否すると、家康は会津征伐を刊行し
          同年の関ヶ原の戦いへと発展した。戦後に上杉家が会津を没収されると、秀行が60万石で旧領に
          復帰した。この大抜擢は、秀行が家康の三女・振姫を正室としていたことも大きいといわれる。
           大大名へ返り咲いた蒲生家中では再び重臣らによる権力闘争が激化したが、そのさなかの慶長
          十七年(1612)に秀行は数え30歳で病没した。跡を継いだ子の忠郷の代に、天守が現在の五層に
          改められたとされる。しかし、相変わらず家中の混乱は続き、忠郷も寛永四年(1627)に早世した。
          忠郷に嗣子はなかったが、家康の孫にあたることから改易は免れ、同母弟の忠知が松山24万石
          へ減転封となった。
           入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が43万石余で会津に封じられた。もともとは忠知の義父に
          あたる藤堂高虎が入封する予定であったが、高虎がそれまで不仲であった嘉明を推挙したため、
          両者は和解したとする言い伝えがある。寛永八年(1631)に嘉明が没すると、子の明成が家督を
          継いだが、宿老の堀主水と対立してこれを粛正したため、家中取り締まり不行届として改易された。
          明成の代に、若松城に西出丸や北出丸が設けられたとされる。
           代わって山形から23万石で入部したのが、2代将軍・徳川秀忠の庶子の保科正之である。3代
          藩主で正之の六男の正容のときから、保科家は松平姓を許され、親藩・会津松平家となった。9代
          容保は高須藩主・松平義建の子で、英邁といわれた高須四兄弟の1人である。京都守護職として
          昏迷を窮める京洛の治安維持に普請したが、大政奉還を受けて会津へ帰国した。
           続く慶応四年(1868)の戊辰戦争では、会津藩は奥羽越列藩同盟の主力の1家となった。しかし、
          母成峠を突破されると新政府軍に若松城へ肉薄され、八月二十三日から攻城戦が開始された。
          若松城は南東の小田山から激しい砲撃を加えられたものの、炎上や崩落はしなかったとされる。
          だた、1か月の籠城戦の末、九月二十二日に至り会津藩は降伏勧告を受諾した。砲撃による損傷
          の激しかった城はそのまま廃城・解体され、蘆名氏以来500年弱におよぶ歴史に幕を下ろした。


       <手記>
           東北を代表する名城であり、幕末に実戦も経験している鶴ヶ城。正式名称は単に若松城ですが、
          同名の城との区別や愛称として浸透している会津若松城を表題としています。
           私が初めて訪れたのは、城好きになって間もない小学生の頃でした。当時、城下町の会津塗の
          お店でお小遣いを握りしめて盃を1枚買い求め、チビッ子がそんなものと買いたがることに驚いて、
          店員さんが少し値引きしてくれたのが良い思い出です。その杯は今も我が家にあり、ときどき使用
          しています。
           それから30余年、再び訪城したのは2024年のこと。このときは総勢10名以上のオフ会で市内に
          1泊し、独り早朝に起きて集合時間前に朝駆けしてきました。建物に入る以外は自由に歩けるため、
          朝から地元の方が散歩を楽しんていました。逆に言うと、天守には登っていません。以前と異なる
          のは、天守の瓦が2011年に、黒瓦から現役当時の赤瓦に葺き替えられたことでしょう。
           加藤明成が築造した北と西の馬出し状出丸によって、地図上では平城に見える若松城ですが、
          実際には東から延びる台地裾の舌状先端部を利用しています。選地としてはきわめて中世的で、
          水濠で四周囲まれた本丸および帯曲輪が、おそらく黒川城時代の城域だったのでしょう。近世の
          若松城は、そのなかに本丸を仕切る石垣を設け、角に天守台を設けています。
           追手は北出丸の東側とされていますが、2つの馬出しに2基ずつある門はいずれも規模が小さく、
          大手門らしさはみられません。また二の丸は東側にあり、明成以前は二の丸東門ないし三の丸の
          北門が大手だったのではないかと推察されます。
           ちなみに、若松城は市街中心部や会津若松駅からはいささか離れているので、公共交通機関で
          訪れる際は注意が必要です。

           
 西出丸の濠と石垣。
西大手門跡。 
 西出丸のようす。
西中門跡。 
 黎明の天守近影。
同上。 
 同上。
同上。 
 干飯櫓と本丸多聞櫓。
二の丸から廊下橋門越しに天守を望む。 
 二の丸の水濠。
水濠と石垣。 
 二の丸のようす。
二の丸脇の伏兵曲輪。 
 伏兵曲輪から見た本丸水濠。
伏兵曲輪の水濠。 
 北出丸脇から見た本丸水濠。
北出丸の水濠と石垣。 
 追手門跡。
北出丸西門跡。 


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