天神山城(てんじん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 毛利氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR可部線可部駅からバスに乗り、 「安芸高田市役所前」下車徒歩15分 |
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<沿革> 吉田郡山城の出城と推察されるが、詳細は不明である。天文九年(1540)に始まる郡山合戦 (吉田郡山城の戦い)に際し、陶隆房率いる約1万の大内氏援軍が翌十年(1541)一月十一日 に「天神尾」へ陣を移している。ただし、城砦に関する記述はみられないため、天神山城が存在 していたかどうかは定かでない。 <手記> 郡山山系西端の船山城跡から細声峠を挟んだ東側の峰が天神山城跡です。中腹には船山 神社があり、その裏手から踏み分け道が通じています。途中、谷筋に広めの削平地が見られ ますが、城の遺構なのかは不明です。あるいは、天神山の由来となる神社があったとも思われ ます。 城は頂部の櫓台状地形と背後の浅い堀切、そして北西と南西の二股に伸びる尾根に細長い 曲輪がそれぞれ延びるという単純な構造をしています。とはいえ隆房勢がわざわざ構築したとも 考えにくく、いつ誰によって築かれたのかは想像が逞しくなる部分といえるでしょう。 そもそも船山城は毛利元就の弟・元綱の居城とされていますが、それすら確証はありません。 個人的には、わざわざ郡山合戦時に「天神尾」と書いているので、築城はそれより後ではないか と感じています。 船山城が元綱の居城であったとするなら、天文の末ごろに元就が吉田郡山城を郡山全山に 拡張して以降に、船山城を拡張する形で天神山の塁が設けられたとする筋書きが、1つ成り立つ ように思います。というのも元就が若き日を過ごした多治比猿掛城についても、より高所に別個 の城域を新造して拡張するという同様の手法が見られるからです。 |
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天神山城跡(右)と船山城跡(左)。 | |
船山神社。 | |
神社背後谷筋の削平地。 | |
北西尾根の曲輪。 | |
頂部の櫓台状土塁。 | |
南西尾根の曲輪。 | |
南西尾根曲輪の先端部。 | |
背後の堀切跡。 |