明日城(あけひ)
 別称  : 樋結城、明日の地城
 分類  : 平城
 築城者: 明日丹後守か
 遺構  : なし
 交通  : JR予讃線伊予西条駅からバスに乗り、
      「春日町」下車徒歩5分


       <沿革>
           明日丹後守によって築かれたと伝わる。大三島の大山祇神社北方には明日城があり、
          城主は明比氏(明日氏)とされる。また、今治市波方町の片上砦は別名を大平城といい、
          やはり城主を明比氏として今も明比城主神社が祀られている。西条市には「大平良城主
          明日丹後守」と彫られた石碑が建ち、片上砦との関連を念頭に置いているとみられるが、
          丹後守について詳細は不明である。
           『西条市誌』では、明日城を暦応元/延元三年(1338)に河野通盛が攻略した西条城と
          同一とみており、『日本城郭大系』では戦国期の福武山城(八堂城)との関連を指摘して
          いるが、いずれも推測の域を出ない。また、土居構東側の明比神社は天正十三年(1585)
          の四国の役で討ち死にした高峠城主石川備中守の家臣・明比善兵衛家茂を祀っている。
          こちらも明日城との関連が考えられるが、確証はない。


       <手記>
           八堂山北東平野部の田畑の中に、「大平城主 明日丹後守」と彫られた石碑がぽつんと
          建っています。ただし、明日城の正確な位置は今も不明のようで、付近に遺構らしきもの
          は見当たりません。
           西条に明日の地名がみられない以上、大三島発祥の明日氏が片上砦や当地へと分か
          れていったと考えるのが自然でしょう。そうなると、大三島の明日氏や明日城は南北朝期
          に発するとされることから、少なくとも河野通盛が攻め落とした西条城とは関係がないもの
          と思われます。

 「大平城主 明日丹後守」石碑。
石碑周辺の現況。 
 八堂山の考古歴史館から
 石碑周辺を見下ろす。 


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