阿弥陀峰城(あみだがみね) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 一向宗徒か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁 | |
交通 : 京都市バス「京都女子大前」下車徒歩15分 | |
<沿革> 『探訪ブックス 日本の城』には、南北朝時代に南朝方の軍勢が築き、東寺を本陣とした 北朝勢に攻略されたとあるが根拠は不明である。花田卓司「軍事関係文書からみた京都: 南北朝期の京都合戦」(立命館大学『アート・リサーチ』9巻)によれば、建武三/延元元年 (1336)〜延文六/康安元(1361)にかけて、阿弥陀ヶ峰にたびたび軍勢が布陣しており、 とくに建武三/延元元年六月八日には足利尊氏が清閑寺に「久々目路阿弥陀峰」の警護 を命じたとある。ただし、阿弥陀ヶ峰に城砦が築かれたか否かは定かでない。 祇園社(八坂神社)執行による『祇園執行日記』の天文元年(1532)九月三日の条に、 「東山阿弥陀峰ニ篝タキ候 推ニ一向宗歟」とある。この年の八月二十三日、山科本願寺が 細川晴元や茨木長隆らの後押しを受けた法華宗徒に焼き討ちされている。それに先立つ 八月中旬には、東山山麓で両宗徒の間で合戦が行われており、このころには阿弥陀ヶ峰 になんらかの城砦施設があったものと推測されている。翌二年(1533)、一向宗は本拠を 石山本願寺に移し、宗派間の争いも山崎方面が主戦場となった。 山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)では、汁谷口に権益を有していた今村城主今村氏との関連を示唆している。 同氏の墓地が阿弥陀ヶ峰の西麓にあるとのことだが、城との関係があるかは不明である。 慶長四年(1599)、豊臣秀吉の遺骸が、本人の遺命により阿弥陀ヶ峰山頂に葬られた。 阿弥陀ヶ峰城がこのときまで存続していたのかも定かでない。 <手記> 阿弥陀ヶ峰は京都駅の真東にあり、直下を東海道線が通っています。こんもりと目立つ 山で、山頂には豊国廟があります。北麓を京への進入路の1つ汁谷越(現在の渋谷越)が 通過していて、交通の要衝でもあります。北と東の斜面はかなり急で、城を築くにはうって つけの山のように見えます。 かの豊臣秀吉の墓所ということで、京都の名所として有名ではないものの、それなりに 人出はあるだろうと思っていたのですが、想像に反してまったく人気がありませんでした。 一応、入山には50円かかります。山頂まではひたすら延々と続く階段を直登します。頂上 の主郭は、当然ながら廟所として改変されていて、旧状を推察するのは困難です。廟の 裏手にあたる東辺付近には、土塁の痕跡と思われる箇所が見受けられます。南側斜面は 比較的緩やかで、前掲の山本「中世城郭」によればここに多数の曲輪が「よく残っている」 とあります。ただ、私の目には原地形なのか曲輪群の跡なのか判別がつきかねます。 特筆すべきは、豊国廟の階段が一旦途切れて踊り場のようになっている平場周辺にあり ます。踊り場といっても面積が結構あり、その南東隅から獣道が伸びていて、九十九折れ に主郭南西隅に続いています。おそらく、この道が本来の登城路と思われます。そして、 平場から登ってすぐの右手には、土塁で囲まれた楕円形の曲輪があります。この土塁は、 廟の建設には利点のない形状をしているので、城の遺構とみてほぼ間違いないでしょう。 登城路は、この曲輪と山肌に挟みこまれる格好になっていて、城内ではかなり防御力の 高い虎口を形成しています。また平場自体も、訪廟ルートから外れる北側の斜面際では 土塁状になっていて、曲輪の跡である可能性は高いように思われます。これらの点から、 この平場一帯の曲輪群が、阿弥陀峰城の防衛ポイントの1つであったと考えられます。 こうした縄張りの妙や汁谷口を扼するという地勢上、阿弥陀峰城は一向宗門徒による 一時的な陣城程度のもの以上の城砦であったとみるべきでしょう。 |
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阿弥陀ヶ峰を望む。 | |
主郭跡に建つ豊国廟。 | |
豊国廟背後、主郭東辺のようす。 曲輪跡および土塁の痕跡か。 |
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主郭下の平場南側の曲輪の土塁。 | |
平場から主郭へ延びる登城路。 左手が主郭側山肌。右手が前述の曲輪。 |
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平場北側の土塁痕跡。 |