青地城(あおじ) | |
別称 : 部田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 青地忠綱か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、城池 | |
交通 : JR東海道本線草津駅よりバス 「青地」「小学校前」バス停下車 |
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<沿革> 馬淵定弘の四男基綱が青地に進出し、青地氏を称した。定弘は、近江守護佐々木定綱の五男である。 青地城は、基綱の子忠綱によって築かれたとされるが、はっきりしたことは分かっていない。忠綱の子冬綱 は、近江守護代となった。青地氏は六角佐々木氏一門の中でもとりわけ重きを成し、六角氏に従って各地 を転戦したが、南北朝の動乱で当時の当主青地重頼が戦死している。 永正四年(1507)、京を逐われた細川澄元が近江へ逃れた際は、これを青地城に迎えたとされる。澄元 は、まもなく甲賀の山中為俊を頼った。 このように、佐々木氏一族として勢力を誇った青地氏であるが、青地長綱の代に蒲生定秀の二男茂綱を 養子としている。戦国期に急成長した蒲生氏の前に、青地氏の権勢も薄らぎはじめたものと考えられる。 永禄十一年(1568)の織田信長の上洛によって六角氏が没落すると、茂綱は父定秀らとともに織田氏に 臣従した。後に浅井・朝倉氏と信長が対立すると、茂綱は織田信治・森可成らとともに宇佐山城の守将と なった。元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍3万が宇佐山城に向かって接近するとの報に触れ、信治らは 城を出て坂本で迎撃した。この戦いで、信治・可成・茂綱は討ち死にした。 跡を継いだ茂綱の子元珍は、永原城主佐久間信盛の与力となった。天正十年(1582)の本能寺の変後、 元珍は岐阜の織田信孝に従った。翌十一年(1583)に信孝が羽柴秀吉に滅ぼされると、元珍は流浪の身 となり、最終的に加賀前田家に仕えた。 廃城時期は明らかでないが、おそらく元珍が所領を失うと同時と思われる。 <手記> 志津小学校から小槻神社までのあたりが城跡とされています。小学校と神社の間には、大規模な堀と 土塁が残っています。また、小学校の前は広い池となっており、城の防御の一部を担っていたものと推測 されます。 青地は、草津川が平野部に出る喉元にあたり、その名の通り穀倉地帯であったと考えられています。 また東海道や東山道にも近く、信楽や田上、琵琶湖の湖港志那港へも通じており、交通の要地でもあり ました。 とくに碑などは見当たらなかったのですが、これらの遺構や地理的条件から、近江有数の豪族であった 青地氏の往時の権勢を十分偲ぶことができます。 |
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志津小学校裏の空堀と土塁。 |
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青地城址(志津小学校)。 |
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小学校前の城池。 | |
小槻神社。 |