麻生城(あそう) | |
別称 : 羽黒城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 麻生家幹 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀 | |
交通 : JR鹿島線潮来駅よりバス 「天王崎」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 大掾氏一族麻生氏の居城である。大掾氏支流吉田清幹の孫行方景幹の三男三郎家幹が、麻生 に居を構え麻生氏を称した。『日本城郭大系』には天慶年間(938〜47)の築城とあるが、景幹は 元暦元年(1184)の屋島の戦いで討ち死にしており、家幹を創建者とすると年代が合わない。 家幹は4兄弟の三男で、他の兄弟もそれぞれ小高氏、島崎氏、玉造氏の祖となった。これら4家は 「行方四頭」と呼ばれ、行方郡の中心的存在となった。 戦国時代になると、同族である4家もお互いに争うようになった。天正十二年(1584)、麻生常安 (之幹とも)は島崎安定(義幹、儀幹、安重とも)に麻生城を攻め落とされ、麻生氏は滅亡した。常安 は自害したとも、江戸崎城主の土岐治綱を頼って落ち延びたとも伝わる。安定は、里見義堯の五男 井関義政を麻生城主としたとされる。義政は、兄義弘との不和から常陸に出奔していたとされるが、 島崎氏に身を寄せ、麻生城主となるまでの経緯は不明である。 天正十八年(1590)の小田原の役で、大掾氏一族は豊臣秀吉の下に参陣しなかったため、改易 された上に所領は佐竹義重に与えられた。義重は、翌十九年(1591)に安定はじめいわゆる「南方 三十三館」と呼ばれた大掾氏一族ら行方・鹿島両郡の有力領主を太田城に招き、殺害した。こうして 佐竹氏領となった麻生城には、家臣下河辺氏が派遣されたとされる。 慶長七年(1602)、佐竹氏は出羽へ移封となった。麻生城はこのとき廃城になったと推測される。 同九年(1604)、新庄直頼が麻生周辺で3万石余を得て大名となると、直頼は麻生城址の東麓に 陣屋を設けた。 <手記> 麻生城は、東に城下川、南と西に霞ケ浦を望む丘陵の突端にありました。現在、主城域は羽黒山 公園となっています。桜の名所としてよく整備された公園ですが、反面、遺構と公園化による造成の 判別がつきにくくなっています。公園へ登る道の脇に説明板が設置されており、その裏の土塁は、 わりとはっきりと認められる遺構のひとつです。主郭は、城跡というより公園として削平されており、 当時の状況のままかどうかは分かりません。西側一段下には帯曲輪が巡っており、こちらは遺構で あると見受けられます。 公園から峰続きの西側は、藪を抜けて墓地となっていますが、この藪のなかにもっとも見ごたえの ある遺構が眠っています。尾根筋を2条の堀切で断ち切っており、その間に小さな曲輪をなしている ようすがはっきり見てとれます。ただ、城の西端を断ち切るなら、道路や駐車場があるあたりに堀切 を設けるのが通常と思われ、主城域から一旦尾根を下ってまた登ったところに堀切が連なっている のは少々不自然なようにも感じられます。その西側の墓地も城内に含まれていた可能性も考えられ ますが、現況では確認は困難です。 全体として、それほど複雑な構造はしていないように見受けられます。あるいは、西側の峰は佐竹 氏時代の拡張とも考えられますが、詳細は不明です。 |
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麻生城跡説明板と背後の土塁。 | |
主郭のようす(羽黒山公園)。 | |
主郭西側の帯曲輪跡。 | |
西側の峰の堀切(1条目)。 | |
同2条目。 |