勝山陣屋(かつやま)
 別称  : 加知山陣屋
 分類  : 陣屋
 築城者: 内藤清政
 遺構  : 井戸
 交通  : JR内房線安房勝山駅徒歩10分


       <沿革>
           元和八年(1622)、内藤清成の次男清政が安房国内3万石に加増・転封され、勝山城跡
          麓に陣屋を建造した。しかし、清政は21歳で嗣子なく病没し、弟の正勝もまだ若かったため、
          安房勝山藩はわずか1年でいったん廃藩となった。
           寛永三年(1626)、成長した正勝は2万石で藩を再興したが、やはり同六年(1629)に22歳
          の若さで世を去った。正勝には男子があったが、当然ながら幼少であり、遺児重頼は長狭郡
          5千石のみを相続し、藩と勝山陣屋は再び廃された。ちなみに、重頼の養子で甥の清枚は、
          高遠藩の初代藩主となった。
           その後、勝山周辺は小浜藩領となったが、寛文八年(1668年)に3代藩主酒井忠直が甥の
          忠国に1万石を分知し、安房勝山藩が復活した。勝山藩酒井家は最終的に1万2千石となり、
          9代を数えて明治維新を迎えた。ちなみに、明治二年(1869)には勝山の別称である加知山
          藩へ改称している。


       <手記>
           中世勝山城跡の北東麓に、ピースサインの指のような二又の細尾根があり、その間から
          先端麓にかけてが、勝山陣屋跡とされています。2本の尾根の指先にはそれぞれ屋敷稲荷
          があり、東西一対の守護神だったようです。
           そのうち西側の稲荷社の少し東方には、陣屋のものとされる井戸があります。一方の東の
          稲荷社裏には、屋敷からの抜け穴と呼ばれる洞穴がありますが、出入口が丸見えなので、
          実際のところは不明です。
           郵便局前の港通りが陣屋の北辺だったようですが、現状ではそれら以外に陣屋の遺物は
          みられないようです。また、200mほど南の最誓寺は、3千石を分知された忠国の次男忠成
          が設けた板井ヶ谷陣屋の跡とされています。

           
 勝山陣屋跡現況。
西の屋敷稲荷。 
 稲荷東方の井戸跡。
東の屋敷稲荷。 
 稲荷背後の伝・屋敷からの抜け穴。


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