米山寺城(べいさんじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 柿崎氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : 北陸自動車道柿崎ICから車で10分 | |
<沿革> 柿崎城主柿崎氏によって築かれたとみられているが、詳細は不明である。 天正六年(1578)の御館の乱に際し、柿崎家中は柿崎景家の子晴家に近い親景虎派と、 晴家の子・千熊丸(憲家)を擁する親景勝派に分裂した。晴家は乱の発端である上杉謙信 死去の翌日に殺害されたといわれるが、不明点も多い。柿崎家臣上野九兵衛を中心とする 親景勝派は猿毛城に親景虎派を攻め滅ぼしたが、これに先んじて米山寺城も攻め落とした ともいわれるが、確証はない。 <手記> 米山寺城は柿崎川中流の丘陵地帯にあり、川向こうの岩手城は景家期の柿崎氏の居城 ともいわれています。峰先端の圓田神社から稜線を遡っていくのですが、道は途中の匣型 の区画までしかなく、そこからは藪漕ぎしながらの直登です。この区画は掘り込んで作られ ており、米山寺城に伴う屋敷等か寺院があったものと推測されます。また、神社東側の小峰 は数段に削平されており、出城があった可能性も考えられます。 このときは総勢12名もの城跡好きのオフ会に参加し、県内出身の方が先入りして簡単に 草刈りを行ってくださっていましたが、それでも行軍は容易ではありませんでした。単独では 諦めていたかもしれません。 うんとこ進んで城山に取りつくと、藪に埋もれて2本の竪堀や竪土塁が現れ、そまでの苦労 も一気に報われました。竪堀は上部で横堀に接続しており、早くも技巧的な城であることが うかがえました。 竪堀付近を登った先は副郭で、その先端には城域南端の堀切が穿たれています。主郭と 副郭の間には堀はなく、大きく開いた虎口で接続しています。主郭の背後には2条の堀切が あり、その間も曲輪のようですが、とにかく藪でなかなか全容がつかめません。主郭の東辺 には畝状竪堀も見られ、大きな見どころといえるでしょう。 全体的には、コンパクトにまとまった防衛拠点という感じで、なんとか登城路だけでも整備 されれば地元の宝ではないかなぁと惜しまれます。 |
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米山寺城跡(右側)と猿毛城跡(左手奥)。 | |
圓田神社東側の峰の段築地形。 出城跡か。 |
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圓田神社東側の峰の頂部を見上げる。 | |
稜線途中にある匣型の区画。 屋敷ないし寺院跡か。 |
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同区画の土塁状地形。 | |
城山西側斜面の竪堀。 | |
同じく竪堀と竪土塁。 | |
竪堀に繋がっている横堀。 | |
副郭のようす。 | |
副郭先端側の堀切。 | |
堀底から副郭を見上げる。 | |
主郭虎口。 | |
虎口脇の石積み跡か。 | |
主郭のようす。 | |
主郭背後1条目の堀切。 | |
2条目の堀切。 | |
主郭東斜面の畝状竪堀。 | |
主郭北側の帯曲輪。 | |
帯曲輪から主郭背後の堀切を望む。 |