ビールリート城 ( Ruine Bielriet ) |
|
別称 : ビーリリート城 | |
分類 : 山城(Höhenburg) | |
築城者: ガイエル家ないしフェルトナー家 | |
交通 : シュヴェービッシュ・ハル市街地より自転車で40分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> コームブルク=ローテンブルク伯家の分家ビールリート家によって、西暦1000年ごろに 築かれたと考えられている。1078年に、コームブルク=ローテンブルク伯ブルクハルトが コームブルクの居城を修道院に改め自ら修道士となったが、1085年にはアーダルベルト・ フォン・ビールリートも同じく修道士として同院に入門している。 12世紀後半ごろに、フリードリヒ・フォン・ビールリートが神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世 (バルバロッサ:赤髭王)に仕えていたが、1190年のフリードリヒ1世の死とともに史料上 から姿を消し、ビールリート家の名も見られなくなった。まもなくビールリート家は断絶した ものと推測されている。 13世紀前半ごろ、ビールリート城はヴァルター・シェンク・フォン・シュプフに与えられた。 ヴァルターはリームプルク城を築き、シェンク・フォン・リームプルク家を名乗った。1280年 代には、ヴァルターの次男コンラートがビールリート城に住んだと伝わる。コンラートは、 ミンネゼンガー(Minnesänger)と呼ばれる宮廷恋愛詩の作り手として知られる。コンラート 死後の1287年、ビールリート城はハインリヒ・キュッヒェンマイスター・フォン・ノルデンブルク に売却された。ハインリヒの後裔はキュッヒェンマイスター・フォン・ビールリート家を称した。 1359年、城はクラフト・フォン・ホーエンローエに売却された。1361年には、神聖ローマ 皇帝カール4世に譲渡された。カール4世とその子ヴェンツェルはボヘミア王を兼任しており、 ビールリート城はボヘミア王の領有とされた。 1386年ないし90年には、シュヴェービッシュ・ハル市の有力者に借金の抵当として譲り 渡された。まもなく、ハル市によって1トンの火薬で爆破されたと伝わる。 <手記> ビールリート城は、コッヒャー川の支流ビューラー川の谷に突き出した峰上にあります。 地続きの西側はハル台地と呼ばれる、コッヒャー川とビューラー川に囲まれた広い台地と なっています。かつては、ハルとローテンブルクを結ぶ街道沿いにあった交通の要衝の 城でした。今でもハルとクライルスハイムを結ぶ幹線道路が脇を走っていますが、バスが 通っておらず鉄道駅からもだいぶ離れているので、車か自転車を使わないと訪城は容易 ではありません。 幹線道路から畑の脇の側道に入り、さらに林の中の遊歩道へと入ります。歴史の道とか 何とか書かれた標識に従い、ひたすら峰の先端目指して進みます。遊歩道が鋭角に屈曲 するあたりで標識が途切れ、左手に藪に覆われた獣道が続く分岐点に出るので、臆せず にこの道を進みます。すると、下の写真の説明板が現れるので、ここまで来ればひと安心 です(笑)。下の写真の看板の右手へさらに少し下りると、堀切の堀底に達します。 ビールリート城は、二重の堀をもつ舌状の峰先端の城です。他の一般的なドイツの城跡 と異なり、石造の壁や建造物がほとんど残っておらず、地山がむき出しとなっているため、 日本の山城に迷い込んだのではないかという錯覚にすら陥ります。日本の中世城郭ファン の目からみて、なんといっても一番の見どころは堀です。西洋の中世城館でも背後の堀切 はセオリーですが、さらに城山の周囲には、日本でいうところの竪堀のような切れ込みが 2か所ほど見受けられました。 一応、主郭に2か所石積みの跡が残っていますが、ここから往時の姿を推測することは かなり困難です。伝承では大量の火薬で爆破されたことになっていますが、総石造の城を 跡形もなく吹き飛ばすほどの量を用意できたのか、ちょっと疑問です。おそらくは、爆破は あったにせよデモンストレーション的なもので、その後は改めて人力による徹底的な破城 を行い、石材は建造物の建築のために持ち運ばれたものと推測されます。 ビューラー川を挟んだ対岸の峰先のいくつかにも城が築かれていたということで、この谷 がいかに重要であったかがうかがえます。古城址ファンとしては全部訪ねてみたいところ だったのですが、谷越えの道がかなりの九十九折れで(ドイツ語でもヘアピンカーブと呼ぶ そうです)、自転車で巡っていた私にはリスキーだったため泣く泣く断念しました。 |
|
ビールリート城説明板。 これを見付けるまでが大変です。 |
|
外郭の堀切。 | |
竪堀跡か? | |
外郭から内堀越しに主郭を望む。 | |
主郭の石積みその2(その1は一番上の写真)。 |