ローテンブルク ( Rothenburg ob der Tauber) |
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別称 : ローテンブルク・オプ・デア・タウバー、ローテンブルク城 | |
分類 : 都城 | |
築城者: コームブルク伯ブルクハルトか | |
交通 : ローテンブルク駅徒歩10分。 またはヨーロッパバス利用。 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 970年頃、東フランク王国の貴族ライニガーは、現在のローテンブルク北西1qほどにあるデート ヴァンク地区に聖ペーター教会を建築した。ヴュルツブルク大司教領との境界を明らかにするため とみられているが、これがローテンブルクの起源とされている。 1070年代に、コームブルク伯ブルクハルトが現在のローテンブルク旧市街南西隅に突き出た峰 の先端付近のエシヒクルークに城を築いた。このローテンブルク城とデートヴァンクとのつながりや コームブルク伯家とライニガーの関係などは詳らかでない。ただ、このローテンブルク城が現在の ローテンブルクの正式名称のもととなる「oberhalb der Tauber(タウバー川の上方の意)」の号を 冠していたことから、デートヴァンクとは別個という意識があったものと推測される。 ブルクハルトはコームブルク=ローテンブルク伯家を称したが、同家は1116年に無嗣断絶した。 最後の当主ハインリヒは、死後遺領のすべてを同家が創設したコームブルク修道院に寄贈する よう遺言したが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世はこれを認めず、自身の甥コンラート・フォン・ホー エンシュタウフェンに相続させた。コンラートは、1137年にドイツ王コンラート3世として即位(戴冠 はできなかったので皇帝ではない)し、1142年にヴュルツブルクとの所領交換によって得たデート ヴァンクとエシヒクルークとの間の峰に帝国の宮城を築いた。現在のブルク庭園(Burggarten)の 位置にあったとされ、ローテンブルク市のHPでもブルク庭園について、城址庭園(die Garten anstelle der Burg)と呼ぶのが正しかろうとしている。 しかし、コンラート3世が1152年に死去すると、後を継いだ甥のフリードリヒ1世(バルバロッサ: 赤髭王)はヴィンプフェンに皇帝居城を築いて移った。コンラート3世の子フリードリヒは、父の逝去 時にはまだ幼かったためフリードリヒ1世の後見を受け、1157年に成人するとローテンブルク一帯 の所領とシュヴァーベン大公位を与えられ、フリードリヒ4世・フォン・ローテンブルクを名乗った。 ところが、フリードリヒ4世は1167年にイタリアで病死し(マラリアといわれる)、シュヴァーベン大公 はフリードリヒ1世の長男フリードリヒ5世が継いだ。 フリードリヒ5世はローテンブルクには住まなかったものとみられ、1170年代にローテンブルク市 が成立した。12世紀前半頃に、ローテンブルク城を取り込む形で市壁が築かれた。現在の白い塔 (ヴァイサー塔)やマルクス塔がその名残とされる。他方で、帝国から派遣された市長がローテン ブルク市の統治を行い、帝国料理頭(キュッヘンマイスター:日本の内膳職に相当か)ルーポルト・ フォン・ノルデンベルクの弟ヘルマンなどが市長を務めたとされる。 1274年、ローテンブルク市は帝国自由都市に昇格し、14世紀にかけて市域の拡大が図られた。 1311年には、ドイツ騎士団により現在の聖ヤーコプ教会の建設が始まった。教会内に聖遺物の 1つ聖血が収められたことから、多くの巡礼者がローテンブルクを訪れるようになり、市の繁栄に 寄与した。1356年のバーゼル地震でかつてのローテンブルク城が倒壊し、その石は市壁の建材 に転用された。1378年にプレーンライン以南の地区が城壁内に取り込まれ、今日の市域が完成 した。14世紀末ごろには、ニュルンベルクに次ぐフランケン第二の都市となったといわれる。 1524年にはじまるドイツ農民戦争では、ローテンブルクは宗教改革を支持し、一揆側に立った。 しかし、翌年鎮圧軍のブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カーシミールに降伏し、一揆を指導 したヨハン・トイシュラインらが処刑された。しかし、その後結局市民のほとんどがプロテスタントへ 転向した。三十年戦争中期の1631年、ティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる6万のカトリック同盟 軍によってローテンブルクは包囲され、ほどなく陥落した。誰か3.25リットルのワインを一気に飲み 干す者があれば市民は助けるが、さもなくば掠奪するとヨハンが興じ、市長ゲオルク・ヌッシュが これを成し遂げて市民を救ったとする「マイスタートリンク」の物語は、このときの話とされる(ただ、 ヨハンが市内に入ったという確証はないといわれる)。1645年にも、フランス軍によって占領された とされる。 1803年、ローテンブルクは帝国自由都市位を剥奪され、バイエルン領に組み入れられた。ドイツ 帝国成立後の1880年代に入ると、鉄道が敷設されたこともあって観光地として注目されるように なり、景観の保存に関する法律が制定された。だが、第二次世界大戦末期の1945年3月31日の 空襲で、300を超える建物と750mにわたる市壁が破壊された。戦後、昔の姿に忠実に復元され、 今日に至っている。 <手記> ローテンブルクといえば、ドイツ・ロマンチック街道のノイシュヴァンシュタイン宮と並ぶハイライト として知られています。世界的な観光地ですので、市内で見かける外国人は日本人に限らないの ですが、日本人がダントツで多いように思います。とくにツアー客が多く、今日では団体様といえば 中国人が圧倒的に多いのですが、ここでは目にする団体様御一行は日本人がほとんどです。 というわけで、市内観光に関してここでとやかくいう必要はないと思います。城としてのローテン ブルクに目をやると、なんといっても旧市街をぐるりとめぐる城壁や門がみどころです。この城壁の の上は、大部分が今でも歩いて回ることができます。東の城壁を歩くと、壁に石のネームプレート がたくさん埋め込まれています。復元や修復・保存費用の寄付者の名前が彫られているわけです が、ここにも日本の個人名や企業名が多数見受けられ、いかに日本とローテンブルクの繋がりが 深いかが分かります。 他方、内部まで入れる門や塔は多くありません。南のシュピタール門は、正式にはシュピタール 要塞(Spitalbastei)といい、その名の通り門であると同時に前衛基地となっています。城壁歩きの ルート上にあって無料で入ることができ、多数の砲門が開いた薄暗い内部は城跡の雰囲気も満点 です。もう1つのオススメは、北のクリンゲン門に付随する聖ヴォルフガンク教会です。こちらも正式 には要塞(Bastei)なのですが、教会が要塞に取り込まれているのが特徴です。聖ヴォルフガンク 教会は、教会なのに無骨な地下兵営や銃眼があり、また第二次世界大戦での被害を伝える写真 展示もあります。一応有料ですが、ガイドブックには載っていないイチオシのスポットです。 さて、都城としてのローテンブルクという視点からみて面白いのは、その発展のようすを地図上で トレースできるというところにもあると思います。狭義のローテンブルクのはじまりは、旧市街の西端 ブルク門の外側、現在のブルク庭園一帯にあったとされる旧城跡です。現在では何の遺構も残って いませんが、三方を河岸に囲まれた峰の先端という立地に中世の城跡のよすがを読み取ることが できます。次に、都市として建設された最初の都城の跡は、現在の中世犯罪博物館からマルクス 塔、白い塔、郷土博物館と半円状に囲う路地としてみることができます。さらに、13世紀末頃から の拡大では、クリンゲン門からガルゲン門、レーダー門、そして今日プレーンラインと呼ばれるガイド ブックなどでおなじみの撮影ポイント脇のコボルツェラー門を結ぶ城壁と堀が築かれました。最後に、 旧市街の南に舌のように伸びるプレーンラインからシュピタール門に至る地区が市域に取り込まれ て、現在の姿が完成しました。 |
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レーダー門。 | |
シュピタール門。 | |
シュピタール門内部のようす。 | |
南西隅の塔。 初代ローテンブルク城があったとされるエシヒクルーク周辺にあたります。 |
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コボルツェラー門。 | |
ガイドブックなどでおなじみのプレーンラインの風景。 | |
ブルク門。 写真手前側に中世ローテンブルク城がありました。 |
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クリンゲン門。 | |
聖ヴォルフガンク教会。 | |
教会内部の銃眼。 | |
ガルゲン門。 | |
マルクス塔。 | |
タウバー川にかかる二重橋とローテンブルク市街。 |