御着城(ごちゃく)
 別称  : 茶臼山城、天川城
 分類  : 平城
 築城者: 小寺政隆
 遺構  : 櫓台
 交通  : JR山陽本線御着駅徒歩5分


       <沿革>
           永正十六年(1519)、赤松氏家臣小寺政隆によって築かれた。ただし、それ以前から前身
          となる施設は存在していたようで、現地説明板によれば、嘉吉年間(1441〜44)にはすでに
          構居が築かれていたとされる。昭和五十二〜五十四年(1977〜79)に行われた発掘調査
          では、存続期間は14世紀後半からと推定された。
           それまでの小寺氏の居城は西の姫山にあり(後の姫路城)、政隆ないしその子則職の代
          に、御着城は小寺氏の居城となった。姫山城には、重臣八代道慶が城代として置かれた。
          小寺氏が居城を移した理由については諸説あって定かでない。
           享禄三年(1530)、細川高国を擁した浦上村宗が畿内進出を図って播磨国に侵攻すると、
          小寺政隆は御着の北の庄山城に籠って抵抗したが、敗れて討ち死にした。翌四年(1531)
          の大物崩れで高国・村宗が横死すると、則職が御着城主に返り咲いた。
           則職の子政職の代までに、御着城は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び、「播磨
          三大城」と呼ばれる規模になったといわれる(ただし出典不明)。宝暦五年(1755)に描かれ
          た『播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図』によれば、天川に面した西と南には二重
          の堀を、北と東には四重の堀と惣構えを備えていたとされる。
           天正四年(1576)、政職は東より伸長してきた織田氏に従った。政職が登用して姫山城代
          に任じた黒田職隆・孝高(官兵衛)父子の助言によるものともいわれる。しかし、同六年(15
          78)に別所氏や摂津の荒木氏が相次いで織田氏から離反すると、政職もこれに同調した。
          同年中ないし翌七年(1579)に山陽方面軍の羽柴秀吉勢によって御着城は攻め落とされ、
          政職は毛利氏を頼って落ち延びた。
           翌八年(1580)ごろに、秀吉は黒田父子の姫山城を播磨経略の拠点としたため、御着城
          はそのまま廃城となったとみられている。


       <手記>
           御着城は、天川がほぼ90度にカーブする内側に築かれた城です。茶臼山と呼ばれる小丘
          を利用していたことから茶臼山城とも称しますが、基本的に平城です。城跡の中心を山陽道
          が貫通しており、当時も街道が城内を通過していたか、大きく迂回していたものと推測され
          ます。
           前出の『絵図』から本丸と推定されている一帯には、姫路市役所東出張所や御国野公民
          館、小寺大明神などがあります。小寺大明神は小高い盛土の上に鎮座しており、かつての
          茶臼山山頂ないし土塁や櫓台跡ではないかと思われます。城郭風建築の東出張所の前は
          城址公園となっており、公園と国道の角には御着城址の石碑が建っています。全体として、
          街道沿いの平城跡ということもあって、遺構はほとんど残っていません。
           御着城最大の謎は、なぜ小寺氏は姫山(姫路)から御着に移ったのかという点にあります。
          一説に、浦上村宗の侵攻に備えるためであったというのがあります。たしかに、西から東進
          してくる浦上氏からみて、御着城の西には市川という天然の防衛ラインがあります。しかし、
          御着城自体は山間の平城という、あまり籠城を意識しているとは思えない選地をしており、
          わざわざ居城を移す理由としては説得力がないように思われます。
           御着城の特徴は、山陽道が山間の隘路となるところで、平地一杯に城域を拡げて街道を
          抱え込んでいるという点にあります。この選地から直感的に読み取れるのは、つとめて軍略
          ではなく経略の城であるということだろうと思います。より確実に山陽道を押さえて、小寺氏
          の地力を上げようとしていたと考える方が可能性があるように感じられます。
           もうひとつ私が着目したのは、御着から天川沿いにを遡ると、別所氏領の青野ヶ原(現在
          の加西市・小野市)を経て三木城へ至ることができ、山陽道廻りと距離的にはほとんど同じ
          ルートが確保できます。逆に、姫山城から御着城への移転は、主君赤松氏の居城置塩城
          から遠ざかることになり、小寺氏が赤松氏よりも別所氏との連携を重視した結果ではないか
          と、個人的に考えています。

           
 御着城址碑。
小寺大明神。 
 大明神脇に建つ天川城址碑。
天川の流れ。 
 城址公園と姫路市役所東出張所。


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