天神山城(てんじんやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 浦上宗景 | |
遺構 : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR山陽本線和気駅からバスに乗り、 「河本」下車徒歩30分 |
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<沿革> 天文二十年(1551)、備前へ進出した尼子氏への対応を巡り、室山城主浦上政宗と弟の宗景が 反目した。日笠青山城主日笠頼房らは宗景を支持し、宗景は同二十三年(1554)に天神山の支峰 に新城を築いて独立を図った。天神山頂部には日笠青山城の支城とされる天神山古城があった が、宗景の新城に取り込まれ、太鼓の丸と呼ばれる出丸となった。 尼子氏と結んだ政宗に対して宗景は毛利に属し、家臣の宇喜多直家らの活躍もあり、備前での 戦国大名としての自立に成功した。永禄七年(1564)には政宗が龍野城主赤松政秀に殺害され、 宗景は政宗の遺児誠宗を同十年(1567)に暗殺してその所領をも併合した。一方で、実力を蓄え 独自行動を取るようになった直家への対処に苦慮するようになる。 天正二年(1574)、宗景は織田信長から備前・播磨・美作3国の支配を認められた。しかし、これ には直家だけでなく播磨の諸将も反感を抱き、直家は播磨御着城主小寺政職から誠宗の遺児で ある久松丸を迎え入れ、浦上氏の正統な当主として擁立した。毛利氏と結んだ直家は、大義名分 を以て宗景方の国人を次々に寝返らせたが、天神山城とその支城群には手が出せず、一時膠着 状態となった。 しかし、翌天正三年(1575)五月に毛利氏が離反した備中の三村氏を攻め滅ぼすと、浦上方は ジリ貧の様相を呈し、七月ごろには天神山城に追い詰められた。ここに至って延原景能ら宗景の 側近からも離反が出はじめ、明石行雄(景親)が城内に火を放って一画を占拠すると、ついに宗景 は城を棄てて落ち延びた。 戦後、直家は天神山城を改修したともいわれるが、城主など詳しい扱いは不明である。天正六年 (1578)には、宗景と一族とみられている浦上秀宗が挙兵し、天神山城を奪取した(『坪井文書』)。 しかし、反乱は翌七年(1579)までに鎮圧され、宗景・秀宗らは再び城を落去したとされる。 この一件を以て天神山城は廃されたともみられるが、廃城の経緯は明らかでない。 <手記> 天神山城は標高約409mの天神山から派生する、70mほど下がった峰先側に位置しています。 先端麓からも登れるようですが、天神山の南東中腹にあるキャンプ場「和気美しい森」から行くと、 高低差もあまりなく駐車場やトイレも完備されているのでおすすめです。帰りが急な登りとなります が、麓から比高370mの登山をするよりは気も楽と思われます。ただ、下の写真は便宜上、先端側 から順番に載せました。 細長く急峻な尾根筋を利用しているため、本丸の前後に曲輪が並ぶ典型的な連郭式の縄張り をしています。部分的には桜の馬場という広めの曲輪の両サイドに帯曲輪も認められ、そのうちの 北側に大手門が設けられています。 また、先端の下の段に至るまで随所に石垣の跡が残っているのも大きな特徴です。現地案内板 にもあるとおり、最盛期にはほとんど総石垣だったのではないかと感じさせるほど、広範囲に散在 しています。直家が攻め落としてからの改修ともいわれますが、直家期の数年で築けるような規模 と範囲とは思えず、個人的には宗景の居城として整備されたとみるのが妥当と考えられます。 一方で、天神山の周囲には平地がほとんどなく、険阻ではあるものの発展性が望めない土地で あることは否めないでしょう。宗景の経歴を見ると、戦国大名としての実力はあったのでしょうが、 発展性を求めて岡山に居城を移した直家と比べると、やはり限界があったのかなと感じました。 |
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西から天神山城跡を望む。 | |
太鼓丸(右手山頂)と天神山城跡(左手)。 | |
下の丸の石垣。 | |
同上。 | |
下の丸。 | |
西櫓台。 | |
三の丸の虎口と石垣。 | |
三の丸。 | |
三の丸からの眺望。 | |
三の丸から鍛冶場を見上げる。 | |
鍛冶場。 | |
桜の馬場南側の帯曲輪。 | |
桜の馬場北側の大手門脇石垣。 | |
大手門跡。 | |
桜の馬場。 | |
長屋の段の石垣。 | |
長屋の段。 | |
二の丸。 | |
二の丸背後の空堀(堀切)。 | |
本丸の石碑。 | |
本丸のようす。 | |
本丸後端の天神社。 | |
飛騨の丸上段。 | |
飛騨の丸下段。 奥に石垣が見えます。 |
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馬屋の段。 | |
馬屋の段北側斜面に竪堀があるそうなのですが…、 分かりませんでした。 |
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南櫓台。 | |
南の段。 | |
南の段下の堀切。 | |
太鼓丸城との境を成す鞍部の堀切跡。 |