ブランバー城
(Bramber Castle)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: ウィリアム1世
 交通  : ウィンザー&イートン・リバーサイド駅徒歩5分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           現地説明板によれば、ブランバー領主ウィリアム・ド・ブラオーズ(William de Braose)に
          よって1073年ごろに築かれたとされる。ウィリアムはもともとフランスのノルマンディー地方
          ブリオーズ(Briouze)の領主で、ノルマンディー公ギヨームによるノルマン・コンクエストに
          従軍し、ギヨームがウィリアム1世としてイングランド王となるに及んで、ブランバーの封建
          貴族(feudal baron)として取り立てられていた。
           初代ウィリアムの曽孫の4代ブランバー領主ウィリアム・デ・ブラオーズは、イングランド王
          ジョンといさかいを起こした。理由については定かでないが、ジョン王の甥アーサー・オブ・
          ブリタニーの死を王による暗殺とする噂が広がっていたことについて、ウィリアムの妻モード
          が軽率な発言をしたためともいわれている。ジョン王はウィリアムの忠誠心を試すために、
          息子を人質に差し出すよう要求した。だが、モードはこれを拒絶したばかりか、王の従臣に
          聞こえよがしに「甥殺しの王に誰が我が子を渡すものか」と言い放ったとされる。1208年、
          ジョン王は速やかに兵を差し向け、ド・ブラオーズ家の城を次々と落としていった。モードと
          その長男はアイルランドへ逃れたが、1210年に捕えられウィンザー城へ送られた。次いで
          コーフ城へ移されたモード母子は、城内の牢獄で餓死した。 この事件はジョン王に対する
          イングランド諸侯の反発を強め、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)成立と続く第一次バロン
          戦争の遠因となった。
           その後もド・ブラオーズ家自体はブランバー城主として存続したが、1326年にウィリアム
          7世が男子無く没すると、娘婿のジョン・ド・モウブレイが跡を襲った。モウブレイ家は後に
          初代ノーフォーク公爵家となった。
           1483年にイングランド国王エドワード4世が死去すると、その子エドワード5世が王位を
          継いだ。エドワード5世の弟のリチャードは、モウブレイ家当主ジョン・モウブレイの一人娘
          アンと結婚していたため、ノーフォーク公を継承していた。しかし、エドワード5世とリチャード
          はロンドンへと向かう途中で叔父のグロスター公リチャードに捕えられ、ロンドン塔に幽閉
          された。兄弟は公式にはそのまま消息不明になったとされ(暗殺されたとみられている)、
          グロスター公リチャードはリチャード3世として国王に即位した。ノーフォーク公は、リチャード
          3世の側近でモウブレイ家庶流のハワード家に与えられたが、ブランバー城はもはや顧み
          られることはなく、16世紀までには廃墟となり、城内の石は建材として持ち去られていった。
           イングランド内戦中の1642年ごろ、議会派によってブランバー城址が占拠され、小競り
          合いが生じたとする記録がある。ただし、このとき議会派が主として立て籠もったのは、
          城跡の脇の教会とみられている。

       <手記>
           ブランバーはイングランド南岸のリゾート都市ブライトンの北西に位置するアドゥー川沿い
          の小さな町です。城山は今は川から少し離れていますが、当時はすぐ麓まで湿地が入り
          込んでいたものと推測されます。
           ノルマンコンクエスト直後に築かれた城は、ほかにもアランデル城ルイス城などがあり
          ますが、「モット・アンド・ベイリー」という当時の様式をもっとも色濃く残しているのは、この
          ブランバー城ではないでしょうか。モットとは小さな丘、ベイリーとは堀や城壁に囲まれた
          空間(日本でいうところの曲輪)を意味します。すなわち、独立丘の斜面をぐるっと横堀状
          に掘り込み、その土を盛って塁と成し、その内側を城内としたものです。いわゆる掻き上げ
          の城に近いもので、短期間で築ける利点があり、この時代にとくに好んで用いられていた
          ようです。
           とはいえ掻き上げの城ですから、実戦には便利でも居住や威厳を示す目的にはあまり
          向いていません。なので近世以降まで残っているような城は、改修によってモット・アンド・
          ベイリーの特徴は薄くなっています。ブランバー城は比較的早い段階で打ち捨てられた
          ため、中世の貴重な城砦のようすを今に残しています。
           説明が長くなりましたが、実際に訪れてみれば中世城郭ファンなら歓喜を声を上げず
          にはいられないでしょう。なにしろ城山の周囲をぐるっと深い薬研の空堀が巡っているの
          ですから。トップ写真のようにここだけ切り取れば、日本の城跡といってもまず疑われない
          でしょう。城内に入るとすぐに、今の城跡のシンボルである崩れかけた塔の高い壁面が
          現れますが、私のような中世城郭好きなら、むしろ空堀の方に感動するはずです。
           城内はかつてぐるっと城壁に囲まれていて、それに沿って建物が並んでいました。曲輪
          の中央にはさらにプリンを盛ったような丘があり、おそらくここには主塔(英語ではキープ)
          が建っていたものと思われます。今では遺跡としてほんの一部が残る程度ですが、城跡
          としては雰囲気充分です。
           城内への入口の脇には、城付きの礼拝堂として建立された聖ニコラス教会があります。
          この教会はよく見ると奥の塔が宗教施設というより城砦のような形状をしています。上述
          のイングランド内戦時に司令塔となったのはむしろこちらと考えられているようで、今では
          ノルマンコンクエスト(現在までつながる王統の始まり)以降のイングランドで最古の教会
          建築ともいわれています。

 城山を囲む堀。
同上。 
 堀跡と城壁の基部。
シンボルとなっている塔の外壁。 
 城内中央の丘を望む。櫓台か。
城内の建物跡。 
 同上。
城壁跡。 
 聖ニコラス教会。
 奥の塔の形状は城砦の一部であったことを
 物語っています。


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