佐倉城(さくら) | |
別称 : 鹿島城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鹿島幹胤 | |
遺構 : 門、堀、土塁、櫓台、虎口 | |
交通 : 京成本線京成成田駅徒歩15分 | |
<沿革> 天文年間(1532〜55)の末ごろ、千葉親胤の命を受けた一族の鹿島幹胤によって、 本佐倉城に代わる千葉氏の本城として築城が計画された。幹胤は親胤の叔父とも いわれるが、確証はない。また、幹胤は天文十四年(1545)の没とされるが、親胤は 同十年(1541)生まれであるため、事実とすれば築城の経緯に疑問が残る。いずれに せよ、親胤が弘治三年(1557)に暗殺されたため、計画は頓挫した。 親胤の後を襲った千葉(海上)胤富の子・邦胤の代に、主筋である北条氏政の勧め で鹿島城の普請が再開された。しかし、天正十三年(1585)に邦胤も暗殺され、再び 計画は中止となった。 関ヶ原の戦いを経た慶長十五年(1610)、徳川秀忠の側近・土井利勝が佐倉藩3万 2千石に封じられると、三たび鹿島台への築城が行われた。一説には、徳川家康が 鷹狩の際に未完の鹿島城へ立ち寄り、「天下に3つとない名城となるであろう」として 利勝に普請を命じたとされる。元和二年(1616)ごろには一応の完成を見たとされ、 「佐倉城」と改名された。 徳川家の直命で築かれた江戸鎮護の城であることもあり、利勝が寛永十年(1633) に古河藩へ転出した後も、譜代の雄が目まぐるしく入れ替わった。浜松城が出世城 と呼ばれるのに対し、佐倉藩は老中など幕府の要職に就いた者が封じられる傾向が あり、「老中の城」とも称される。利勝の後は石川忠総・形原松平家2代・堀田家2代・ 大給松平乗久・大久保忠朝・戸田家2代・稲葉家2代・大給松平家2代を経て、延享 三年(1746)に堀田正亮が入封するとようやく藩主家が安定し、堀田家が6代を数え て明治維新を迎えた。 <手記> 都心から電車で行ける近場の近世城郭の1つである佐倉城は、「歴博」の略称で 親しまれる国立歴史民俗博物館が建っていることでも有名です。ただし、最寄駅から のアクセスが優れているとは決していえず、バスがないときは京成佐倉駅から15分 ほど歩いて麓から城山を登らなくてはなりません。とはいえ、北麓には立派な水濠や 田町門跡の土塁などがあるため、城跡ファンならばやはり歩くべきでしょう。 城内は史跡公園としてもきれいに整備され、復元された角馬出しや大手口の堀と 土塁、そして唯一の現存建物である北西麓の出丸薬医門などみどころは豊富です。 本丸はぐるりと土塁が巡り、その外側の空堀は、もはや堀というより谷といった方が よいくらいの深さ。櫓台や段築状の天守台も残り、往時は天守代用の御三階櫓が 載っていました。 土造りの近世城郭として見学の満足度の高い佐倉城跡ですが、難点は飲食店が 付近に少ないということでしょうか。私はお昼とて大手先のそば店「房州屋 本店」に 入り、「般若そば」なるメニューをいただきました。これは蕎麦に日本酒を振りかけて 食べるというもので、なるほど酒がかかると蕎麦の香りがふわっと立ちます。興味の ある方は、ぜひ車でなく鉄道で訪城してみましょう。 |
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北麓の水濠。 | |
同上。 | |
田町門跡の土塁。 | |
円勝寺跡。 | |
復元角馬出し。 | |
同上。 | |
二の丸の空堀。 | |
二の門跡。 | |
二の門脇の土塁。 | |
二の丸の御殿跡。 | |
本丸一の門跡。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の銅櫓跡。 | |
本丸天守台。 | |
本丸台所門脇の隅櫓跡。 | |
本丸下の帯曲輪。 | |
北西麓出丸のようす。 | |
北西麓出丸の移築薬医門。 | |
出丸の水濠。 | |
本丸下の水濠。 | |
清水出丸と水濠。 | |
清水出丸のようす。 | |
三の丸の空堀。 | |
同上。 | |
大手門跡。 | |
大手の復元空堀。 |