古河城(こが)
 別称  : 古河御所
 分類  : 平城
 築城者: 下河辺行平
 遺構  : 門、土塁、堀
 交通  : JR東北本線古河駅または
       東武日光線新古河駅徒歩15分


       <沿革>
           『永享記』等によれば、藤原秀郷流小山氏庶流の下河辺行平が、平安末期ごろに
          龍崎(立崎)に居館を築いたのが始まりとされる。近世古河城の南端には立崎郭が
          あり、その北隣には頼政郭があった。これは、下河辺荘の成立に寄与した源頼政を
          祀った廟があったことにちなむとされる。
           『関八州古戦録』によれば、弘和二/永徳二年(1382)の小山義政の乱に際して、
          古河城は義政軍2千騎の攻撃を受けた。越後守護上杉憲栄に属する下河辺朝行ら
          100騎ほどで守っていたが、あえなく落城したとされる。
           義政は同年中に鎌倉公方足利氏満の討伐軍に敗れて自害したが、元中三年/
          至徳三年(1386)にはその遺児若犬丸が祇園城で挙兵した。氏満は古河城に入り、
          討伐の指揮をとったとされる。同年中に乱が鎮圧されると、下河辺荘は鎌倉公方の
          御料所となり、足利氏家臣野田右馬助等忠が古河城主に任じられた。
           永享十二年(1440)の結城合戦では、古河城主野田右馬助持忠が鎌倉公方足利
          持氏の遺児春王丸と安王丸を擁した結城氏朝方につき、矢部大炊助らとともに籠城
          した。しかし、関東管領上杉清方の攻撃を受けて落城した。大炊助は戦死し、持忠
          は逃亡した。
           鎌倉公方は持氏の四男成氏をもって再興されたが、成氏が関東管領上杉憲忠を
          殺害したことから享徳の乱が勃発した。享徳四年(1455)、鎌倉が今川範忠によって
          占領されると、成氏は古河に本拠を移した。以後、成氏は古河公方と呼ばれるように
          なる。当初は鴻巣館を居館としていたが、長禄元年(1457)に古河城に移った。
           文明三年(1471)、成氏方は討伐のために派遣された堀越公方足利政知を伊豆に
          攻めたが、逆に主力が離れている隙を突いて山内上杉氏家宰長尾景信率いる軍勢
          に古河城を攻め落とされた。しかし、翌年には成氏が古河城を奪還している。
           享徳の乱は文明十四年(1483)の都鄙合体によってようやく終結したが、古河城は
          その後も古河公方の居城として機能し続けた。
           成氏の曽孫晴氏は、新興勢力の北条氏康と敵対し、山内・扇谷両上杉氏とともに
          河越城を囲んだ。しかし、天文十五年(1546)の河越夜戦で敗北すると逆に北条氏
          の圧迫を受け、同二十三年(1554)に古河城を攻められて降伏した。晴氏は相模国
          波多野に幽閉されたが、弘治三年(1557)に古河城帰還を許された。だが、氏康に
          廃嫡を命じられていた晴氏の長男藤氏が叛乱を企てたことが発覚したため、晴氏は
          栗橋城に幽閉され、藤氏は追放された。
           翌永禄元年(1558)、氏康は妹芳春院と晴氏の子(藤氏の異母弟)義氏を新たな
          古河公方に擁立した。しかし、義氏は古河城ではなく、古河公方家重臣簗田晴助の
          関宿城を居城とするよう指定された。代わって、古河城には晴助が入った。これは、
          氏康が関東北東部への進出拠点として関宿城に注目したためであったが、同四年
          (1561)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東へ出兵すると、晴助がこれに呼応した
          ことにより、逆に古河城が対北条氏の拠点となった。義氏は関宿城を捨てて逃れた
          ため、晴助が同城に入り、古河城には藤氏と山内上杉憲政、そして関白近衛前久ら
          が入城した。
           謙信が越後に帰国するとすぐに北条氏の反撃に遭い、永禄五年(1562)には古河
          城は陥落、藤氏は捉えられて小田原に送られた。古河城には義氏が復帰し、元亀
          元年(1570)に越相同盟が成立すると、古河公方の地位は謙信からも追認された。
          天正十一年(1583)に義氏が没すると、義氏と氏康の娘との間に生まれた娘(足利
          氏姫)が跡を継いだ。足利氏姫については、「氏」という名前なのか、単に足利氏の
          姫という意味なのかで2説ある。
           天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、足利氏姫は古河城の
          退去を命じられ、鴻巣館へ移った。同年に徳川家康が関東に入国すると、徳川家臣
          小笠原秀政が3万石で古河城に入った。関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602)には、
          戸田松平康長が白井城から2万石で転入した。康長の代に、追手門や観音寺曲輪、
          百間堀などの拡張が行われた。
           康長の後、小笠原氏2代を経て奥平忠昌が入部し、このころに近世古河城の大枠
          が整備されたとされる。以後、永井家2代、土井家5代、堀田家2代、藤井松平家2代、
          大河内松平家2代、本多家2代、松井松平家2代と譜代大名の雄が目まぐるしく入れ
          替わり、宝暦十二年(1762)に土井利里が入ると、同家が7代を数えて明治維新を
          迎えた。


       <手記>
           平安時代末に端を発し、中近世にわたって大きな役割を果たし続けた古河城です
          が、その歴史に比して遺構の残存状況は悲しいくらいに芳しくありません。その理由
          は、1つには本丸以下主城域が河川敷および堤防に飲み込まれてしまったこと、もう
          1つは城の防衛の重要な部分を担っていた沼沢地(百間堀)が、都市の発展のため
          には邪魔でしかなかったことが挙げられると思います。
           もっとも良好に残っている遺構は、おそらく頼政神社の土塁でしょう。近世古河城の
          北西端にあたる観音寺曲輪の土塁で、頼政神社は前出の頼政廟を遷したものです。
          頼政神社から真東に歩いたY字路には、追手門跡の石碑が建てられています。その
          東側にある稲荷神社脇には、観音寺曲輪東辺の土塁痕跡とその下に百間堀の跡が
          見受けられます。
           古河城の遺構というと、一般的に古河歴史博物館の水堀跡がまず取り上げられて
          います。ただ、個人的にはかなり残念な整備のされ方をしているように思うところで、
          近世城郭らしい折れは見られるものの、親水公園の水路のように固められてしまって
          います。そもそも博物館の建つ諏訪曲輪は、百間堀を隔ててぽつんと突出した出丸
          にあたります。
           博物館から真西に歩いた国道脇に、むしろより見ごたえのある「獅子ヶ崎」の土塁
          があります。このほか、福法寺には二の丸御殿の乾門が移築されています。
           本丸北東端にあたる堤防上には本丸跡の石碑があるそうでうすが、遺構残存地域
          から離れているうえにそれだけ見ても詮方ないかと思い、費用対効果を勘案してパス
          させていただきました。

           
 頼政神社の土塁。
同上。 
 同じく頼政神社境内の船渡門跡脇の土塁。
追手門跡石碑。 
 稲荷神社脇の土塁跡と百間堀跡。
獅子ヶ崎土塁。 
 福法寺の移築乾門。
諏訪曲輪の堀跡。 
 同じく堀跡と土塁跡。


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