伊達城(だて) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 伊達房実か | |
遺構 : 堀跡か | |
交通 : 東武野田線大和田駅徒歩10分 | |
<沿革> 永禄三年(1560)に、岩付城主太田氏家臣伊達房実によって築かれたとされるが、 確証はない。 北条氏政の子氏房が太田氏を継ぐと、房実はその付家老となった。旧来一般的に、 永禄十年(1567)の三船山の戦いで太田氏資が討ち死にしたことを受けて入嗣した 太田源五郎を、氏房と同一人物としてきた。しかし近年では、源五郎を氏房の実兄と して別人物とする説が有力である。そのため、房実が付家老となった時期についても 現在のところ永禄十年、天正十年(1582)、同十三年(1585)の3説ある。 天正十八年(1590)の小田原の役に際して氏房は小田原城へ籠城し、岩付城には 房実ら2000人が守備兵として置かれた。豊臣勢2万人に攻められ、奮戦したものの、 岩付城は降伏・開城を余儀なくされた。 同年、房実は関東に入国した徳川家康に召し抱えられ、翌天正十九年(1591)に 伊達城のある大和田村に250石を与えられた。しかし、伊達城は再び使用されること なく破却され、城下に大和田陣屋が設けられた。 <手記> 伊達城は、かつての見沼の岸の舌状地形を利用した城です。現在主城域は老人 ホームとなっていて、碑や説明板などは見当たりません。周辺には細沼姓の旧家が 点在していて、なかには立派な長屋門をもったお宅もあります。あるいは伊達家や 伊達城と関連のある家なのかもしれません。 確実な遺構は認められませんでしたが、南縁を麓へ降りる生活道路は、あるいは かつての堀底道とも思われます。また、大宮商業高校の西辺が大きな段差となって いますが、かつてはこの辺りまで見沼の入り江が入り込んでいたそうで、伊達城は 三方を水に囲まれた要害だったことがうかがえます。 主城域のすぐ南東が大和田陣屋跡になりますが、おそらく当時はそのあたりまで が、外郭部として伊達城の城域内だったものと推測されます。 |
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伊達城址を望む。 | |
南縁の堀底道状の生活道路。 |
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大宮商業高校との境の段差。 かつては校庭のあたりまで見沼の入り江だったそうです。 |