ディルスベルク城
( Bergfeste Dilsberg )
 別称  : なし
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: ラウフェン伯
 交通  : ネッカーシュタイナハ駅徒歩30分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           12世紀後半にラウフェン伯によって築かれたとみられている。ラウフェン伯家は神聖ローマ帝国
          の廷臣であるとともに、ヴォルムス司教座との間にもパイプをもっていた。このころ、ヴィンプフェン
          にシュタウフェン朝の皇帝居城が築かれ、ディルスベルクの対岸には、ときのヴォルムス司教で
          あったコンラート・フォン・シュタイナハによって後城が築かれていた。当時、ディルスベルク周辺
          には未開発の森が広がっており、ヴォルムス司教との交渉力のあるラウフェン伯が皇帝の意を
          受けて山上に城を築き、先んじて開拓を進めようとしたものと推測されている。ヴォルムス司教も
          ディルスベルクの森の開拓を試みたが、高所に利を得たラウフェン伯が終始有利に周辺を切り
          拓いていったとされる。
           1208年に、ラウフェン伯ボッポー5世の居所「ディリヘスベルヒ(Dilighesberch)」として初めて
          文献に登場する。しかし、1212年にポッポー5世が死去すると、男子がいなかったため、娘婿の
          コンラート1世・フォン・デュルンが遺領を相続した。1251年にコンラート1世が亡くなると、遺領は
          3人の息子に分割相続された。そのうちの1人、ディルスベルク城を受け継いだボッポー1世は、
          1253年にディルスベルク家を称した。ボッポー1世はライン宮中伯の支配下に入っていたので、
          ハイデルベルク城の守備を義務付けらていれた。
           詳しい経緯や年代は不明だが、ディルスベルク城は14世紀前半にはライン宮中伯の所有と
          なっていた。1347年、ライン宮中伯ルドルフ2世はディルスベルク城下に町を建設し、周辺から
          住民を募った。これが今日のディルスベルクの町の始まりとされる。ディルスベルク城も、ハイ
          デルベルクの詰城として整備されていった。
           17世紀の三十年戦争に際しては、ディルスベルク城はネッカー川下流地域でもっとも堅固で、
          かつもっとも多くの戦闘を経験した城の1つといわれる。1621年、ティリー伯ヨハン・セルクラエス
          率いるカトリック同盟軍に包囲され、翌年にハイデルベルクが占領されると、ディルスベルク城も
          降伏した。1633年にスウェーデン軍が攻め落としたが、1635年には帝国軍によって再び占領
          された。
          1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)により、城はプファルツ選帝侯(かつて
          のライン宮中伯)に返還され、100人単位の兵が駐留することとなった。プファルツ継承戦争
          さなかの1690年にはフランス軍に占領されたが、ハイデルベルクと異なり城や町が破壊される
          ことはなかった。
           1799年には、フランス革命軍がディルスベルク城を攻めたが、ディルスベルクの施設に入って
          いた退役兵の活躍によって撃退された。1803年にディルスベルクはバーデン領となり、城は
          監獄施設となった。1822年には老朽化により廃城となり、石材を建材として自由に利用できる
          ようになった。19世紀末に部分的に補修され、今日に至っている。


       <手記>
           四城で知られるネッカーシュタイナハの町へ向かうと、ネッカー川の対岸の山の頂上に何やら
          町があるのが嫌でも目につきます。これがディルスベルクの町です。緑の緩やかな丘に赤屋根
          が密集するさまは、なんとも不思議です。
           「なぜこんなところに町が」というのが、とにもかくにも第一の疑問です。ディルスベルクは皇帝
          居城のあったバート・ヴィンプフェンとヴォルムスを直線で結んだ線と、ネッカー川の交わるところ
          に位置しています。ディルスベルク城が築かれた12世紀には、ハイデルベルクもまだヴォルムス
          司教領に属していて、ディルスベルクやネッカーシュタイナハはヴォルムス司教座と神聖ローマ
          帝国領のちょうど境目にあったものと推測されます。周辺は当時まだ未開発地域であったという
          ことから、両者の緊張関係のなかで司教側は四城を築き、帝国側はディルスベルク城を築いた
          のでしょう。そして、山上に城だけがあるのなら不自然ではありませんが、意図的に町を作って
          しまったことで、周囲から隔絶された不思議な集落ができてしまったということなのでしょう。
           いうまでもなく交通はとても不便です。西隣のネッカーゲミュントの町からバスが出ているよう
          ですが、おそらく本数はかなり少ないでしょう。対岸のネッカーシュタイナハからの公共交通機関
          はありません。私は覚悟を決めて東麓から登りました。一応それほど険しい山ではなく、、森の
          中の道を行くので、ハイキングの気持ちで登ればそこまで大変ということはありません。
           城は町の南東隅に位置しています。二重の城壁に囲まれていて、はっきりとした主塔を持た
          ない代わりに、外套城壁(Mantelmauer)と呼ばれる内郭の城壁が高く巡っていて堅固です。
          この外套城壁には有料で登ることができ、上からの眺望は絶景の一言に尽きます。おそらく、
          ネッカー沿いの古城街道の城のなかでも1、2を争う高さ(標高+城の高さ)にあると思われ、
          360度遮るもののない大パノラマを楽しむことができます。
           その他の遺構としては、主郭の井戸跡や現在はトイレとなっている御殿跡地下の牢獄跡など
          があります。この牢獄は、一時期ハイデルベルク大学の懲罰房としても使われていたそうです。
           ディルスベルク城は、このように魅力あふれる廃墟であると同時に観光客も少なく、町自体が
          中世の名残を色濃く残すコンパクトで静かな集落です。古城街道の穴場観光スポットとして私の
          イチオシであります。
 
  
 燕巣城からディルスベルクを望む。
ディルスベルク城主郭近望。 
 主郭外套城壁を外側から望む。
主郭近望。 
 外套城壁の上のようす。
城壁上からの眺望その1。 
 その2。ハイデルベルク方面を望む。
 井戸跡。 
 御殿跡。地下には監獄跡があります。


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