府中城(ふちゅう)
 別称  : 越前府中城、越府城、藤垣城
 分類  : 平城
 築城者: 前田利家
 遺構  : なし
 交通  : JR北陸本線武生駅徒歩1分


       <沿革>
           天正三年(1575)、柴田勝家の与力として朝倉氏滅亡後の越前一向一揆討伐で
          活躍した前田利家は、越前府中に10万石を与えられた。利家は、日野川端の総社
          大神宮を移転させて府中城を築いた。この地には、古代には越前国府が設けられ、
          その後は越前守護所や朝倉氏の奉行所があったともいわれるが確証はない。
           天正九年(1581)に利家が能登一国を与えられて移ると、府中城には利家嫡男の
          利長が入れられた。同十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際し、利家は兵5千を率いて
          柴田方に属したが、交戦することなく戦場を離脱し、柴田軍は羽柴秀吉に敗北した。
          このとき、府中城に籠る利家のもとに北ノ庄城へ撤退する途中の勝家が立ち寄り、
          これまでの労をねぎらったとも伝わる。
           戦後、越前の大部分は丹羽長秀に与えられた。天正十三年(1585)に長秀が没し、
          その子長重が若狭一国に減封されると、木村定重・重茲父子が12万石で府中城主
          となった。文禄元年(1592)、重茲は文禄の役での功により淀城へ加増転封となり、
          代わって青木一矩が越前大野城から府中城へ移った。ただし一矩の移封は、豊臣
          秀次の付家老であった重茲が秀次事件に連座して切腹を命じられた同四年(1595)
          のこととする説もある。
           慶長四年(1599)、北ノ庄への減転封を命じられていた小早川秀秋が旧領名島城
          へ復帰すると、一矩が代わりに北ノ庄20万石へ加増された。府中領から一矩の子
          俊矩(養子とも)に2万石が与えられたが、俊矩は府中城のそばの金剛院城を居城
          とした。このとき、府中城の扱いがどうであったかは定かでない。また、同年に堀尾
          吉晴が徳川家康から越前府中に隠居料5万石をあてがわれている。このときの吉晴
          の居城を府中城として歴代城主に数えることもあるが、確証はない。
           翌慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、一矩父子は西軍に味方したため、東軍の
          前田利長に攻撃された。前田勢の迫るさなかに一矩が病死したため、北ノ庄城は
          開城を余儀なくされ、金剛院城の俊矩もまもなく降伏した。
           青木家は改易となり、家康の次男結城秀康に越前68万石が与えられた。府中城
          には、御附家老の本多富正が3万9千石で入城した。以後、主家福井藩(北ノ庄藩)
          の減封に従い最終的には2万石となったが、明治維新まで本多内蔵助家が府中を
          治めた。本多家時代の府中城には2層の天守相当の櫓が上がっていたとされるが、
          表向きは「御茶屋」ないし「御館」と呼ばれていたとされる。


       <手記>
           越前市役所周辺が府中城の主城域とされていますが、遺構はまったく残っていま
          せん。2018年から市庁舎および立体駐車場の建て替えに伴う発掘調査が行われ、
          かなり立派な石垣が検出されました。しかし、事前の取り決めで「国府」の遺構が
          見つかった場合に工事を中断するとしていたことを理由に、古代国府ではない城跡
          の石垣ではダメと言わんばかりに埋められ、建設は着々と進んでいるようです。
           市役所の南西隅に石碑があるということですが、工事に先立ってこちらも処分され
          たのか、見つかりませんでした。


           

府中城跡現況。


BACK