深江城(ふかえ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 
 遺構  : 石垣、堀、曲輪
 交通  : 島原市街などからバスに乗り、
       「橋口」下車徒歩10分


       <沿革>
           肥前国人安富氏の居城である。安富氏は源頼光を祖とし、下総国が本貫地とされる。
          鎌倉幕府の引付奉行であった安富三郎頼清(泰嗣)が、文永二年(1265)ごろ南高来郡
          深江村に地頭職を得、元寇(文永・弘安の役)の後に頼清の子頼泰が下向して土着した
          とされる。深江城は早ければ頼泰の居館として築かれたとみられるが、詳しい築城年代
          は不明である。また、安富氏の入植以前、すでに肥前有馬氏の一族の深江氏があった
          とされるが、こちらと深江城の関連も定かでない。
           戦国時代に入ると、南の有馬氏が勢力を拡大し、安富貞直は有馬貴純に降ってその
          重臣となった。有馬氏は貴純の孫晴純の代に最盛期を迎えるが、その子義貞の代には
          龍造寺隆信の勢いに押されるようになった。天正五年(1577)、貞直の子純治は隆信に
          降伏し、翌年には義貞の子晴信(当時の諱は鎮貴)も龍造寺氏に従属した。
           天正十一年(1583)、晴信は島津氏に通じて隆信に反旗を翻し、深江城へ攻め寄せた。
          純治は島原純豊の居城浜の城にあり、深江城は純治の子純泰が守っていた。純泰ら
          は城をよく守って耐えていたが、純治の弟の安徳純俊が城ごと有馬方に寝返り、深江城
          は敵中に孤立した。
           翌十二年(1584)、隆信は有馬氏を討つべく大軍を率い、島原半島に渡った。しかし、
          五月四日の沖田畷の戦いで隆信は戦死し、純治も城を出て討ち死にを遂げた。純泰は
          進退窮まって城を捨て、龍造寺氏を頼って落ち延びた。
           廃城時期については定かでない。寛永十四年(1637)に発生した島原の乱に際して、
          島原城へ押し寄せた一揆勢はこれを落とすことができず、ひとまず深江城跡に拠って
          島原藩兵を迎え撃った。その後、天草の一揆勢との合流を図って原城へと向かった。
          この戦いをもって、深江城は名実ともに廃城となったと思われる。

          
       <手記>
           深江川とその支流の薬師川・畔津川の合流点にあり、三方を水に囲まれた台地先端
          の城です。中心部を県道133号線が貫通していて、道路脇に石碑と説明板が設置され
          ているものの、遺構の判別は困難です。
           薬師川や畔津川の対岸にも出丸を配し、島津氏の攻撃をしのぎきっていることから、
          それなりの規模と要害性をもった城であることがうかがえます。

           
 深江城跡石碑と説明板。
深江城跡現況。 


BACK