原城(はら)
 別称  : 日暮城、志自岐原城
 分類  : 平山城
 築城者: 有馬貴純
 遺構  : 曲輪跡、石垣、堀
 交通  : 島原鉄道島原外港駅よりバス
       「原城前」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           島原の乱の舞台として著名な原城址であるが、その歴史は古く、明応五年(1496)に有馬貴純に
          よって日野江城の支城として築かれたと伝わる。貴純は、遠く松浦半島にまで勢力を拡大し、孫の
          晴純と合わせて有馬氏の最盛期を築いた人物とされる。『北肥戦誌』には、晴純について「志自岐
          原城主」と記されており、原城は日野江城と同等かそれに準ずる重要な城とみなされていたことが
          わかる。
           しかし、晴純の子義貞の代になると、龍造寺氏や大友氏および一族外戚によって勢力を蚕食され
          るようになった。義貞の子鎮純(後の晴信)はついに龍造寺氏に屈したが、天正十二年(1584)に
          島津氏に通じ、同年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取った。豊臣秀吉が九州を平定すると、
          晴信は所領を安堵され、日野江城と原城の双方を居城として改修した。本丸には天守が上げられ、
          原城の沖合を通る船は、その美しさから日没を忘れたといわれ、日暮城の雅称が生まれた。また、
          日野江城との間には朱塗りの「からはし」が架けられていたとも伝わるが、両城の間は直線距離で
          4km離れており、「からはし」がどのようなものを指しているのかは詳らかでない。
           晴信は、慶長十四年(1609)の岡本大八事件によって死罪となり、跡を子の直純が継いだ。改易
          とならなかったのは、直純の正室が徳川家康の養女(本多忠政の娘)であったからといわれる。同
          十九年(1614)、直純は縣(後の延岡)へ転封となったが、これは父の事件を苦に直純が希望した
          とも、幕府がキリシタンの多い島原半島から有馬氏を引き離そうとしたためともいわれる。
           代わって、松倉重信(右近)の子重政が、大和五条より4万3千石で入封した。重政は島原城
          築いて移り、原城と日野江城は廃城となった。しかし、重政とその子勝家は悪名高い苛政を布き、
          寛永十四年(1637)に島原の乱が発生した。天草四郎時貞を総大将に仰いだ一揆勢は、島原城や
          富岡城の攻略に失敗し、原城址に立て籠もった。キリシタンである四郎が盟主となったことから、
          島原の乱はキリスト教弾圧に反発したキリシタンの宗教一揆と思われがちだが、実際には松倉家
          や天草を領する寺沢家の苛政に対する農民一揆や、旧有馬領・小西領の領主層による国人一揆
          の側面も強かった。これらのことから、当時若干15〜6歳とされる四郎が指導力を発揮していたこと
          には疑問がもたれ、実際の指揮は旧国人領主層がとっていたものとも推測されている。
           籠城した一揆軍の数は2万強から4万弱と諸説あるが、いずれにしても島原藩単独で鎮圧できる
          ものではなく、幕府は板倉重昌を上使とし、九州諸藩に出兵を命じた。ただちに討伐軍が編成され、
          原城は包囲されたが、籠城軍の士気が高いのに対して、討伐軍は重昌を小身と侮って下知に従わ
          なかったため、一向に落ちる気配をみせなかった。焦った重昌は、翌寛永十五年(1638)一月一日
          に無理な総攻撃を敢行し、自ら陣頭に立って戦死した。
           これを受けて、幕府は「知恵伊豆」として知られる老中松平信綱を、新たな上使として派遣した。
          周辺からの増援も加わり、討伐軍は12万以上の大軍勢となった。信綱は、作戦を兵糧攻めに切り
          替え、またオランダ艦船に依頼して海上からの砲撃も行い、一揆勢の物心両面での消耗を図った。
          1か月以上経ち、城外の小競り合いで討ち取った一揆勢の死体の胃に海藻しか入っていないこと
          を確認した信綱は、二月二十七日に総攻撃を行った(二十八日の予定であったが、佐賀藩の抜け
          駆けにより1日早まったといわれる)。もはや一揆勢に抵抗する力はなく、逃亡者や内応者を除いて、
          一揆勢は残らず討ち取られた。
           江戸時代最大の一揆の舞台となった原城は、戦後幕府によって徹底的に破壊された。

          
       <手記>
           原城は、島原湾に岬状に張り出した海岸段丘を利用した城です。上の地図にある通り、最近まで
          島原鉄道が走っていましたが、平成二十年(2008)に、島原外港〜加津佐間が廃線となってしまい
          ました。一方で、平成三十年(2018)に世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の
          構成資産に登録され、観光名所として脚光を浴びています。無料でレンタルできるタブレット端末で
          城内の建物のVR復元映像が見られたり、北麓の原城温泉の駐車場を観光向けに無料開放したり、
          そこから本丸まで無料の送迎バスを走らせたりレンタル自転車を貸し出したりとさまざまな試みが
          行われていました。
           島原の乱で知られる原城ですが、城跡の調査は近年ようやく本格化したようです。成果は絶大で、
          本丸からは、幕府によって徹底的に埋められたとみられる遺物が続々と検出されているようです。
          本丸北辺には、以前から上辺が壊された古い石垣がありましたが、どういうわけかこれは見せかけ
          の石垣で、乱のころの石垣はその内側に覆い隠されていたそうです。その隠し方も、零した石垣の
          栗石だけでなく、一揆勢の死体を放り込み、その上に土を被せていたようで、石とともに大量の人骨
          が掘り出されたそうです。こうした、原城の旧状を知るための発掘調査は現在も進行中で、さらなる
          成果が期待されます。
           遺構とは別に、本丸には天草四郎の墓と像があります。像は、長崎の平和祈念像を制作した北村
          西望氏によるものです。墓は、別のところにあったものを移したものだそうです。また、本丸一段下の
          曲輪にある「ホネカミ地蔵」は、乱での死者を一揆方幕府方の区別なく供養したものだそうです。
           原城は、本丸を南端として段丘の続く限り北まで城域とされています。本丸の北方に続く二の丸・
          三の丸は、現在では広々として畑地となっていますが、これらすべてを城域とすると、3万人前後が
          籠城するにはちょうど良いかも知れませんが、4万石程度の大名の居城としては大きすぎるようにも
          思われます。
           日野江城と原城を比べると、規模や技術の面で後者の方が進んでいるように思えました。島原の
          乱においても、一揆勢が日野江城を利用した形跡がありません。この点、原城は秀吉の直接の命
          によって大改築が行われたのではないかなと、個人的に推測しています。
           秀吉は西国の経略において海路を重視し、港湾に臨む地をわざわざ指定して城を築かせたとする
          説が、近年注目されています。例としては、筑前の名島城や土佐の浦戸城、肥後の麦島城などが
          挙げられています。原城も同様に、秀吉の指示と技術提供のもと、立派な石垣や天守、桝形などを
          備えた一大近世城郭となったのではないでしょうか。晴信としては、もともとの居城である日野江城
          から目と鼻の先にあることから、原城に移り住むことまではしなかったのかな、というのが私の推測
          です。

           
 二の丸跡から本丸を望む。
本丸北辺の石垣。 
乱の後に築かれたものとみられています。 
 大手門跡。
本丸二重虎口下段。 
 本丸二重虎口上段。
発掘された石垣石列(左手)と投げ込まれた石。 
 本丸のようす。
天守台と内馬場跡を望む。 
 天守台のようす。
本丸池尻口門跡。 
 本丸の天草四郎像。
本丸から蓮池跡(中央の畑地一帯)、二の丸を望む。 
 本丸空堀跡。
二の丸の空堀。 
 三の丸のようす。
三の丸の板倉重昌碑。


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