浜の城(はまの) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 島原氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 島原鉄道霊丘公園体育館駅徒歩5分 | |
<沿革> 有馬氏の一族とされる島原氏の居城である。ただし、島原氏がいつごろ有馬氏から 分かれ、浜の城が築かれたのかは定かでない。島原氏の動静が明らかになるのは、 16世紀の島原純茂からである。 宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、永禄六年(1563)に純茂の子純豊が浜の 城近くの岬の高台に、教会の用地を与えたことが記されている。天正五年(1577)、 純豊は安富氏や西郷氏らとともに龍造寺隆信に臣従し、有馬氏から離反した。 天正十二年(1584)、有馬・島津連合軍を討つべく隆信が大軍を率いて島原半島に 上陸した。純豊や安富純治は浜の城に籠城し、森岳城や丸尾城に陣取った島津勢 と対峙した。五月四日、沖田畷の戦いで隆信が討ち取られると、純治・新七郎父子は 城を出て討ち死にを遂げ、純豊は降伏した。純豊は薩摩に連行されて斬られたとも、 文禄・慶長の役における陣立表に名が見えることから、逃れて鍋島家に仕えたとも いわれる。 元和二年(1616)、日野江藩主有馬直純は縣(後の延岡)へ転封となり、代わって 松倉重政が大和五条から4万3千石で島原半島に入封した。重政は、有馬氏の居城 日野江城を廃し、森岳城を拡張して島原城を築き、その工事中は浜の城に仮寓した とされる。有馬時代の浜の城城主については不明である。島原城の完成によって、 浜の城は完全に廃されたものとみられる。 <手記> 浜の城があったとされる一帯は、寛政四年(1792)の「島原大変肥後迷惑」と呼ば 眉山の山体崩壊により、地形が変わるほどの土砂に埋もれてしまいました。現在の 堀町や中堀町の地名は浜の城にちなんだものといわれますが、今では正確な位置 はわからなくなっています。 新町通り沿いの中央公園に、浜の城跡の立派な石碑と石柱が建てられています。 園内には城の石垣を模したような、そうでもなさそうな遊具もあります。 ところで、沖田畷の戦いに際して森岳城や丸尾城が島津勢に押さええられていた とすると、浜の城は半包囲され孤立していたことになります。有馬旧臣である島原・ 安富両氏が籠もる浜の城を救援できないと、その後の有馬氏攻略に手こずると考え たことが、隆信に早期決戦を促した理由の1つではないかとも推察されます。 |
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中央公園の浜の城跡碑。 | |
園内の城郭風(?)遊具。 |