島原城(しまばら)
 別称  : 森岳城、高来城
 分類  : 平城
 築城者: 松倉重政
 遺構  : 石垣、堀
 交通  : 島原鉄道島原駅徒歩5分


       <沿革>
           元和二年(1616)、縣(後の延岡)へ転封となった有馬氏に代わり、松倉重政が大和五条より4万
          3千石で入封した。重政は、はじめ有馬氏の居城日野江城に入ったが、島原半島を治めるには南に
          寄りすぎているため、同四年(1618)に新らしく島原城の築城を開始した。島原城のある地は、天正
          十二年(1584)の沖田畷の戦いに際して、島津・有馬連合軍が柵を設けた森岳城があったとされる
          が、森岳城の来歴については詳らかでない。
           城は、7年の歳月をかけて寛永元年(1624)に完成した。島原城は、長岡城と並び、一国一城令
          のもとにあって新規築城が許された例外第一号といわれる。完成した島原城は、4万石の小大名に
          はとても見合わない大規模かつ豪壮なもので、領民を容赦なく使役して築かれた。重政・勝家父子
          は、城だけでなく島原藩そのものを10万石格で運営しようとしたため、領民には過度な年貢・課税を
          強いた。未納者には、悪名高い「蓑踊り」や水責め、雲仙地獄での湯責めなどの拷問が行われた。
           寛永十四年(1637)、ついに領民は蜂起し、同じく苛政に喘いでいた隣国の唐津藩領天草の農民
          とともに一揆を起こした。このいわゆる島原の乱は、後にキリシタンの天草四郎時貞を大将と仰いだ
          ことからキリスト教弾圧に対する宗教一揆のように見られがちだが、旧有馬領・小西領の国人層に
          よる国人一揆や、上述の通りの農民一揆という側面も併せもっていた。
           十月二十六日、一揆勢は島原城へ攻め寄せたが、大手門を突破することができず、城下を掠奪
          して撤退した。この事実は、島原城が堅城であったことの証左とみられることもあるが、それ以上に
          このときの寄せ手の一揆勢が千人程度であり、なおかつ攻城に必要な武器がなかったことが理由
          として大きいと考えられている。
           一揆勢は、重政が廃した原城を占拠して徹底抗戦したが、翌寛永十五年(1638)二月二十七日
          の総攻撃によって全滅した。戦後、松倉勝家は失政の責任を問われ、改易のうえ斬首とされた。
          江戸時代の大名が切腹でなく斬首を命じられたのは、勝家が最初で最後である。
           松倉家の跡には、高力忠房が浜松藩より入封した。豊かな浜松から荒廃した島原への転封は、
          一見懲罰的であるが、忠房の復興手腕に対する幕府の信任と期待によるものである。忠房は、乱
          によって人口の激減した島原領に各地から移民を集い、復興の道筋をつけた。しかし、忠房の跡を
          継いだ子の隆長は再び暴政を布いたため、領民の訴えにより寛文八年(1668)に改易となった。
           高力家の跡を襲って、深溝松平忠房が福知山より6万5千石余で加増転封された。5代藩主忠祇
          のとき、松平家は宇都宮へ転封となり、入れ替わりで戸田忠盈が島原に入った。しかし、次の忠寛
          の代に、再び宇都宮藩主松平忠恕と入れ替わった。忠恕は、忠祇の弟にあたる。
           忠恕の代の寛政四年(1792)四月一日、雲仙普賢岳の火山活動にともなう支峰眉山の大崩落が
          起こった。この「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれる山体崩落で、崩れ出た大量の土砂は島原城から
          大手川を挟んだ城下町を飲み込み、海へ流れ込んだ土砂の衝撃で大津波が発生した。その後も、
          火山性の地震が続き、藩主忠恕は城を出て守山村へ避難した。天災におののいて居城を逃れると
          いう行動を武門の恥とみた家臣は、切腹して諌めたと伝わる。忠恕は領民を見捨てたわけではない
          ようで、まもなく領内巡視を行ったが、心労がたたって同月二十七日に死去した。以後、短命の藩主
          が続き、忠恕から8代を数えて明治維新を迎えた。最後の藩主忠和は、15代将軍徳川慶喜の実弟
          である。

          
       <手記>
           島原城は、雲仙普賢岳の北東麓に位置し、南には戦国時代の領主島原氏の居城浜の城が、北
          には龍造寺隆信が戦死した沖田畷の古戦場があったといわれています。南に大手川が流れている
          ほかはとりたてて要害性はなく、きわめて政治的な城であるといえます。
           現在、城の中心部である本丸と二の丸一帯の石垣が残り、天守以下各種の塀や櫓が復興されて
          います。天守は、様式としては最も新しい部類に入る層塔式五層六階の壮麗なもので、同じ九州の
          層塔式天守である小倉城佐賀城天守が、30万石クラスの大大名にして4層5階であることを考え
          れば、明らかに分不相応な城であることは一目瞭然です。また、復興天守閣は1層目のみ海鼠壁と
          なっていますが、本来は全層が海鼠壁であった可能性が強いとみられています。このほか、本丸に
          は丑寅櫓・巽櫓・西櫓の3基が復興されており、このうち丑寅櫓は、島原出身で長崎の平和祈念像
          の作者である北村西望の記念館となっています。
           天守から海を臨むと、緑に覆われた美しい小島が点々と浮かんでいます。この島々は「九十九島」
          と呼ばれていますが、その風光明媚さとは裏腹に、島原大変肥後迷惑における土砂によって形成
          されたという、島原半島の災害の歴史を物語る自然遺産となっています。
           島原城は、100名城とか何とかいうものにも選ばれていますが、その評価については大きく割れて
          います。現在も残る本丸の複雑な縄張りにみえる通り、島原城の本丸と二の丸はかなり作りこまれ
          ています。島原城を名城とみる意見では、天守の豪壮さと相まってこの縄張りを評価し、松倉重政を
          築城の名手であると称えています。一方、かつての縄張り図を見ると、大手門を含む外郭のラインは
          主城域と比べて単調で、なおかつ堀をもっていません。したがって、外から城を目指すと、町の向こう
          に堀もなく突然石垣が現れるという、近世城郭としては少々奇妙な構造をしています。また、現在は
          本丸の西側に土橋が設けられていますが、これは後世につくられたもので、当時本丸は廊下橋1本
          で二の丸とつながっていました。つまり、廊下橋を落とせば本丸はまったくの孤島となるわけですが、
          城造りのセオリーでは脱出口は確保しておくのが一般的であり、自ら袋のネズミになるような縄張り
          はあまり高く評価されない傾向にあります。
           島原城を名城と評価する意見では、島原の乱において一揆勢を追い返しているという点から、その
          堅城ぶりは実証されていると考えているようです。しかし、一揆勢が島原城を攻略できなかったのは、
          上記の通り攻城に必要な人数も道具もなかったからであって、城そのものが他より優れているという
          ものではありません。重政が築城の名手だったと仮定して、彼がどこで築城術を学んだのかについて
          もそれを裏付けるものはありません。
           これらの点を総合すると、私には島原城が少なくとも堅城と呼ぶべきほどのものには思えません。
          重政自身に対する評価は、おおむね武辺者で見栄っ張りといったところのようですので、一城の主と
          して近隣に負けない城をど〜んと作りたい!という一心だったのではないでしょうか。だから、中心部
          はかなり凝っているものの、全体としては実用的とは言い難い城ができあがった。いわゆる、ドイツの
          ノイシュヴァンシュタイン城の日本版のような城なのではないかなと、個人的には考えています。
           島原の観光については、こちらの記事にまとめてありますので、ご参照ください。

           
 本丸を南東から望む。
本丸南辺のようす。 
 天守近望。
天守からの眺望。 
海岸線に並んで浮かんでいるのが九十九島。 
 本丸と二の丸の間の堀。
 かつては廊下橋が架かっていました。
二の丸の堀。 


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