深溝城(ふこうず) | |
別称 : 深溝陣屋 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大庭氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線三ヶ根駅徒歩15分 | |
<沿革> 鎌倉時代に三河大庭氏によって築かれたとされる。三河大庭氏は相模国の大庭景義・景親 兄弟の縁者で、承久三年(1221)に三河守護となった足利氏の被官とされる。城の北にある 長満寺は、正慶元年(1332)に深溝城主大庭朝満によって創建されたと伝わる。 寛正六年(1465)に額田郡一揆が発生すると、一揆方の主要構成員の1人に深溝城主大場 (大庭)次郎左衛門尉の名が見える。『今川記』などによれば、次郎左衛門は松平大炊助に 深溝城を攻められ、討ち取られたとされる。大炊助については五井城主五井松平忠景ないし その長男元心、あるいは次男忠定のいずれかとされる。また、忠景と忠定は同一人物とする 説もあり、判然としない。戦後、忠定は深溝城に拠って深溝松平家を興した。 深溝松平家は、十八松平のなかでは比較的宗家に忠実で、忠定の子の好景は松平元康 (徳川家康)に従って東条城主吉良氏を攻め、永禄四年(1561)の善明堤の戦いで討ち死に した。好景の子の伊忠も天正三年(1575)の長篠の戦いで戦死し、その跡を伊忠の子家忠が 継いだ。 家忠は、『家忠日記』の著者として知られる。天正十八年(1590)に家康が関東へ移される と、家忠は忍城1万石を与えられた。深溝城は吉田城主となった池田輝政の持ち城となり、 城代として家老の日置忠俊が入れられた。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、家忠の子忠利は1万石で旧領深溝に復帰した。 しかし、同十七年(1612)に吉田藩3万石に加増・転封となったため、深溝城はいったん廃城 となった。 寛永元年(1624)、板倉勝重の次男重昌は、父の遺領を合わせて1万5千石の大名となり、 深溝城跡に陣屋を構えた。同十五年(1638)、島原の乱での原城攻めで重昌が戦死すると、 跡を継いだ嫡男重矩は深溝を含む5千石を弟の重直に分知した。重直は後に8千石に加増 され、深溝陣屋は旗本板倉家の代官所として明治維新まで存続した。 <手記> 現在、深溝城跡には2〜3の工場が建っていて、遺構は残っていません。城山の南辺に 沿う道路の角に、城址碑と説明板があります。 地形は今でも推察可能で、深溝の盆地にのっぺりとせり出した丘を利用した城です。要害 性はそれほど高いとは言えませんが、なかなか生産性は高い地域だったと思われます。 形原の港が平安時代から開発されていたエリアであることを鑑みれば、交通上もかなりの 要地だったといえるでしょう。 ちなみに、現在の地名は「ふこうず」ですが、当時は「ふこうぞ」の読みもあったようです。 |
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深溝城址碑と説明板 |