羽場城(はば)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原重次郎か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR飯田線羽場駅徒歩5分


       <沿革>
           現地説明板には、天文年間(1532~55)に小笠原貞宗の四男・小笠原重次郎が築いたとあり、
          『長野県町村誌』では小笠原十二郎が住していたとされる。ただし、貞宗は正平二/貞和三年
          (1347)に没しており、その四男が16世紀に築城するというのは生物学的に不可能である。天文
          三年(1534)には府中小笠原氏の小笠原長棟が松尾小笠原氏を逐って信濃小笠原氏の統一を
          果たしており、天文年間に築城されたとすればその縁者によるものと推測される。また、長棟の
          通称は又二郎であり、これが「十二郎」と誤って伝わったとも考えられるが、推測の域を出るもの
          ではない。
           現地説明板によれば、長棟の子・長時の代に武田晴信(信玄)が伊那谷へ侵攻すると、弘治
          年間(1555~58)に城主「政氏(小笠原氏の一族か)」は降伏したとされる。ただし、長時は天文
          十九年(1550)にすでに村上義清を頼って落ち延びており、少なくとも落城年には疑問が残る。
           文禄二年(1593)に飯田城9万石の城主となった京極高知か、慶長五年(1600)の関ヶ原の
          戦い後に高遠藩2万5千石の藩主となった保科正光のころに、上伊那十三騎の1人とされる柴氏
          が城主となったといわれる。一方、武田氏によって柴河内守が羽場城主に任じられていたとする
          説もある。
           寛永十三年(1636)に正光の養嗣子で将軍徳川秀忠の実子である正之が山形藩20万石へ
          加増・転封となると、柴氏もこれに従い、羽場城は廃城となった。一説には未完の城であったと
          いわれる。


       <手記>
           羽場城は北辺を天竜川が洗う河岸段丘上に築かれた輪郭式の平城です。主郭は手長神社の
          境内となっており、南西隅をJR飯田線に削られているものの、それ以外の三辺の空堀や土塁が
          良好に残っています。
           また、上図に点や線で示した位置にも土塁の残片が認められ、もとは二の郭南辺の土塁として
          一直線に繋がっていたものと拝察されます。未完であったとする根拠は不明ですが、残っている
          遺構を繋いで全体像を想像するに、城館としての基本的な機能は果たせていたと思われます。
           これだけ明瞭な城跡にもかかわらず、その歴史は疑問だらけです。現地説明板の説明は上述
          の通り整合性に問題のある記述が多く、鵜呑みにはできません。他の資料と比較すると、少なく
          とも小笠原氏の一族が築いて居住したという点では一致しているように思いますが、時期を確定
          するのは難しいでしょう。
           また、小笠原氏が築いたのは北の沢を隔てた北西の羽場古城で、近世初頭に柴氏が新たに
          羽場城を設けたともいわれているようです。いずれにせよ、良好な遺構が拝めることから、とても
          満足度の高い城跡といえます。
           ちなみに伊那谷には羽場という地名がちらほら見られますが、何か理由があるのでしょうか。
          地形的な共通点もとくに見いだせず、個人的に関心があります。

           
 主郭の手長神社。
南東辺の空堀。 
 南東隅の空堀と土塁。
同じく東辺。 
 北東隅の河岸際の堀跡。
西辺の土塁。 
 二の郭北東隅の土塁。
二の郭南東辺の土塁。 
 二の郭南西辺の土塁。


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