滝山城(たきやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 大石定重
 遺構  : 曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口
 交通  : 京王線京王八王子駅・JR八王子駅
       またはJR拝島駅よりバス
       「滝山城址下」バス停下車


       <沿革>
           大永元年(1521)に武蔵国守護代大石定重が築き、高月城より移ったとされる。ただし、
          『新編武蔵国風土記稿』には定重の子定久の築城とあり、築城年代については必ずしも
          明らかでない。また大石氏のころにはまだ城はなく、永禄年間(1558〜70)に北条氏照に
          よって築かれたとする説も提唱されている。
           定久は、主家山内上杉氏が天文十五年(1546)の河越夜戦で北条氏康に大敗すると、
          北条氏の圧力に抗しきれなくなり、氏康の三男氏照を婿養子に迎えて家督を譲渡した。
          一般的には、このとき氏照は滝山城に入り、定久は隠居して戸倉城へ移ったといわれる。
           永禄十二年(1569)、甲相同盟の破綻により武田信玄が関東への侵攻を図ると、氏照
          は武田軍の侵入ルートを青梅街道および檜原街道と予想し、檜原城を防衛拠点と位置
          付けた。しかし、信玄は裏をかいて郡内領主小山田信茂に小仏峠から攻め入らせ、自身
          は碓氷峠から上野国を回って南下した。氏照は急遽家臣に2千の手勢を与えて廿里砦
          派遣したが、小山田軍の待ち伏せに遭い敗れた(廿里合戦)。
           信玄隊も南下を続け、滝山城対岸の拝島に本陣を構えた。十月二日、信玄勢は攻城を
          開始し、滝山城は二の丸までのすべての曲輪を落とされたが、氏照勢はそこで信玄勢を
          食い止めた。このとき、氏照は二の丸の楼門の上から指揮を執り、また信玄の嫡子勝頼
          と直接矛を交えたとも伝えられる。翌日、損害の肥大をおそれた信玄は、滝山城攻略を
          断念して小田原城へと向かった。
           氏照は、元亀元年(1570)ごろから八王子城の築城を開始し、その後居城を滝山から
          八王子へ移したとされる(八王子城の築城開始年については諸説あり)。この居城移転は、
          前述の攻防戦によって滝山城の防衛上の不利を実感したことが、大きな動機といわれて
          いる。そのため、廃城時期は一般的に八王子城への移転と同一とみられている。ただし、
          八王子城の築城および移転の時期が明らかでないため、滝山城の廃城時期も正確には
          分かっていない。

       <手記>
           滝山城は、多摩川沿岸に長々と延びる加住丘陵の一角に位置しています。川に面した
          北側は断崖となっていて、東西の尾根筋を堀で断ち切って城域を定めています。
           武田勢2万をわずか2千の城兵でしのいだ名城ですが、今は多摩地方屈指の桜の名所
          として知られています。そのため、全体的に公園として整備がきちんとなされています。
          ただ、桜の公園として賑わうのは本丸、中の丸および信濃屋敷周辺で、その他の曲輪に
          ついては冬でも下草や笹が繁茂し歩きにくい状態のところが多いです。
           遺構の残存状況もたいへん良好で、各曲輪の空堀および土塁をほぼ完全な形で見る
          ことができます。また、本丸には2ヶ所の枡形虎口、二の丸には3か所の喰い違い虎口
          および馬出が、これもとても良好に残っています。二の丸は、多摩川方面以外のルート
          から攻め寄せた際に必ず通らなければならない扇の要ともいえる曲輪です。そのため、
          二の丸の3か所の虎口がとりわけ堅固に作られているようすが今でも見てとれます。学研
          の『戦国の堅城』では、これを二の丸「集中防御」構想と呼び、信玄との攻防戦で氏照軍
          が踏みとどまれた理由と推測しています。
           さて、このように堅城としても桜の名所としても高名な滝山城ですが、信玄との一戦を
          除けば、その歴史の大部分が謎に包まれているといえます。とくに築城経緯については
          史料がほとんどないため、大石氏築城説にしろ北条氏築城説にしろ、論理的推論以上の
          ことはいえません。
           まず築城の経緯についてですが、私はやはり大石氏によるものであると考えています。
          その理由としては、第一に本丸周辺と二の丸以下で、城の構造に大きな違いがあること
          が挙げられます。これは、縄張り図を見ても現地を歩いてみてもわかると思います。本丸
          周辺が、自然の谷を堀切としたり斜面に沿って多くの腰曲輪を段築的に設けているのに
          対し、二の丸以下では先行する縄張りに従って曲輪や堀が建設されています。すなわち、
          本丸周辺と二の丸以下では時代的なズレが見受けられます。おそらく、大石氏時代の
          滝山城は本丸および中の丸までの範囲で、二の丸以下は氏照入嗣以降に増改築された
          部分だと考えられます。
           第二に、城主等の居住空間を指す「千畳敷」と呼ばれる曲輪が、滝山城内には2ヶ所
          あるという点です。1つは二の丸と三の丸の中間に位置するほぼ方形の曲輪で、もう1つ
          は『滝山城古図』に千畳敷と記されている中の丸です。どちらかが誤りであると切り捨て
          ることもできますが、第一の点を敷衍すると、中の丸までが城域であった大石氏時代には
          中の丸こそが居館の置かれた「千畳敷」であり、氏照改修後にもう1つの千畳敷が築かれ
          たとみることも考えられると思われます。
           次に、なぜ滝山城が築かれたのかが問題となります。一般的には、大石定重が高月城
          から移ったとされ、その理由は高月城の防備上の弱さにあるといわれています。しかし、
          縄張りはともかく、地形上はどちらも峰続きの南方が弱点であり、それほど防備上の差が
          あるとは思えません。
           むしろ両者の大きな違いは経済上の利点にあると思われます。高月城は、南東に秋川
          と多摩川の合流点があるとはいえ、直接的には秋川に接しています。対して、滝山城は
          眼下に多摩川を掌握できる位置にあります。大石氏の北隣に勢力をもっていた三田氏が、
          多摩川の水運を用いた材木輸送で潤っていたように、大石氏もより直接多摩川の利権を
          得ようと滝山城を築いたと考えるのが自然だと考えられます。
           この点、田中祥彦氏は『多摩丘陵の古城址』において、北条氏の傘下に入った大石氏
          が北条氏の意を受けて滝山城を築いたとする説を提唱しています。大石氏築城説と北条
          氏築城説の折衷案のような説ですが、これは滝山城の選地が北方の敵を意識している
          ようにみえることから来ています。もちろん確証はありませんが、一定の説得力をもった説
          だといえます。
           最後に廃城の経緯についてですが、これも一般的には前述のとおり滝山城の防衛上の
          不利を感じた氏照が八王子築城に思い至り、滝山城は打ち捨てられたといわれています。
          しかし、わずか2千の城兵で2万の敵勢相手に持ち堪えたという事実は、滝山城に「弱い
          城」どころか、むしろ堅城としての評価を与えるものだと思われます。わざわざ時代に逆行
          する峻嶮な山城へ居城を移すというのは、防衛上の理由からにほかならないでしょうが、
          必ずしも滝山城が頼むに足りない城だから、ということではないと思います。
           詳しくは八王子城の項で考察しますが、八王子城の利点は、小仏峠越え(現在の甲州
          街道)と和田峠越え(現在の陣馬街道)の両方に対応できるところにあります。青梅街道
          ルートは、すでに前戦の檜原城で対応済みですから、八王子城によって西方からの脅威
          に対応できる体制がより広く補強されたことになります。氏照の勢力圏において、八王子
          築城時点で北・東・南からの脅威はほぼないといってよい状況にあり、顧慮すべきは西の
          武田氏、次いで織田氏や徳川氏、豊臣氏ということになります。すなわち八王子移転は、
          2つの城それぞれの防御能力云々といった戦術的な理由ではなく、より広い戦略的視点
          における理由からなされたと考えるべきです。
           さらに、滝山城の経済上の利点も薄まっていたことが、移転を後押しする副次的要因と
          して考えられます。滝山城の経済的利点は多摩川水運の掌握にあると前述しましたが、
          多摩川流域そのものを北条氏が完全に掌握した移転当時にあっては、滝山に居を定めて
          いるメリットが相対的に弱まっていたと思われます
           以上、滝山城の築城から廃城にいたる経緯について、私なりの考察を加えてみました。
          結局、どの意見も決定力をもってはいないので、目下種々多様な説が等しく並び立って
          いる状態にあります。詳細は今後の研究によって少しずつ明らかになっていくのでしょう。

           
 本丸の城址碑。
本丸のようす。 
 本丸東側の升形虎口。
本丸南側の升形虎口。 
 本丸と中の丸の間の空堀と模擬引橋。
中の丸のようす。 
 中の丸からの眺望。
中の丸と二の丸の間の空堀。 
 二の丸外側の空堀。
千畳敷のようす。 
 千畳敷南側の喰い違い状になった土橋。
三の丸南の空堀。 
 小宮曲輪南の空堀。
信濃屋敷(右手)南側の谷筋。 
往古は谷底に溜池が設けられていました。 


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