田中城(たなか)
 別称  : 徳(之)一色城、亀甲城、亀城、亀井城
 分類  : 平城
 築城者: 一色信茂か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR東海道本線西焼津駅徒歩20分


       <沿革>
           15世紀ごろに、今川氏の命を受けて益津郡司一色左衛門尉信茂が徳(之)一色城を
          築いたのが始まりと伝わる。徳一色城については、もともとあった信茂の館を拡張した
          ものともいわれる。
           今川義元の代には、由井美作守が城主だったとされる。美作守は、一般に永禄三年
          (1560)の桶狭間の戦いで討ち死にした由井正信と同一人物とされる。正信の死後は、
          長谷川次郎右衛門正長が城主となったとされる。正長は小川城主長谷川元長の子で、
          「鬼平」で知られる火付盗賊改・長谷川平蔵宣以の先祖にあたる。
           永禄十二年(1569)、徳一色城は駿河へ侵攻した武田信玄に攻められ、翌十三年
          (1570)に落城した。正長は徳川家康を頼って落ち延び、城は馬場信春によって大きく
          改修され、山県昌景が在番となった。田中城に改名されたのもこのときとされる。その
          後、板垣信安や昌景の子昌満を経て、天正七年(1579)に蘆田(依田)信蕃が城主と
          なった。
           天正十年(1582)の織田信長による武田攻めに際し、田中城は徳川軍に攻められた。
          信蕃は、以前城主であった二俣城の戦いで、力攻めでの落城を許さない奮闘を見せ
          たが、今回も杳として落ちず、主君武田勝頼の自害まで持ち堪えた。主家滅亡の報を
          受けて初めて退去し、徳川家臣高力清長が田中城主となった。
           天正十八年(1590)に徳川家が関東へ移封となると、田中城は駿府城14万石を与え
          られた中村一氏の持ち城となった。中村家重臣横田内膳村詮が城番を務めたともいわ
          れる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、中村家は伯耆一国17万5千石へ加増・転封
          となり、翌六年(1601)に酒井忠利が1万石で田中藩を立藩した。忠利によって、外郭の
          四の丸が整備されたとされる。忠利は同十四年(1609)に川越藩へ加増・転封となり、
          田中城は駿府にいる徳川家康・頼宣父子の管轄下となった。元和二年(1616)には、
          家康がこの城で茶屋四郎次郎の接待を受け、有名な「鯛の天ぷら」を食している。
           寛永十年(1633)、桜井松平忠重が上総佐貫藩から2万5千石で田中城へ加増・転封
          となり、再び田中藩を興した。以後、水野忠善、藤井松平忠晴、北条氏重、西尾家2代、
          酒井忠能、土屋政直、太田家2代、内藤弌信、土岐家2代と譜代大名が目まぐるしく
          入れ替わった。享保十五年(1730)、本多正矩が沼田藩から4万石で田中藩に移ると、
          ようやく藩主家が定着し、本多家が7代を数えて明治維新を迎えた。最後の藩主本多
          正訥は、慶応四年(1868)に明治新政府によって安房長尾藩への転封を命じられた。


       <手記>
           円形の縄張りを持つことで知られる田中城ですが、そのようすは今の地図からでも
          容易に見て取れます。とはいえ徳一色城時代は普通の城館だったようで、本丸から
          二の丸あたりまでは方形輪郭式を基調としています。三の丸は、四方に三日月堀を
          もつ円形で、ここが武田氏による拡張部分なのでしょう。それを受けているとはいえ、
          徳川家臣の酒井忠利がさらに円形の外郭を設けたという点が、田中城の特徴を決定
          付けたといえます。
           本丸および二の丸の大部分は西益津小学校となっており、敷地内に結構大きめの
          模型が置かれています。県道沿いの学校東脇には二の丸の三日月堀跡が民家の
          敷地のラインに沿って辛うじて残り、貴重な景観となっています。
           そのほか、かつての屋敷の配置そのままのように、曲輪の線にそって家々が建ち
          並んでいて、その隙間を縫うようにところどころ遺構が点在しています。とりわけ目に
          つくのは、学校の西側に残る二の丸の二の堀と、三の丸の三の堀、そして三の丸の
          北半分に断続的に連なる土塁でしょう。また、県道がカーブする大手一の門跡にも、
          土塁と堀跡が見受けられます。
           主城域から六間川を挟んだ東側には下屋敷があったとされ、ここが現在ガイダンス
          スペースともいえる史跡公園となっています。その脇に大きな駐車場も整備されて
          いるので、車の人はナビをここに指定するとよいでしょう。
           この「田中城下屋敷」には、本丸櫓や重臣屋敷の茶室などいくつかの関連建物が
          移築されています。また、土塁や水溝、池泉といった下屋敷の遺構も残され、こちら
          はこちらで楽しめます。
           さらに余裕があれば、主城域の西方にある姥ヶ池にも足を延ばすとよいでしょう。
          田中城および城下の上水道の水源で、今も滾々と水が湧き出しています。当時は
          木や竹で作った水管で、城内まで引水していたそうです。

           
 二の丸三日月堀跡。
西益津小学校前の本丸跡標柱。 
 西益津小学校敷地内の模型。
 休日だったのでフェンス越しに眺めました。
二の堀。 
 三の堀。
大手一の門跡。 
 一の門跡脇の堀跡。
松原木戸跡。 
 西益津中学校となっている三の丸御殿跡。
三の丸北西端付近の土塁。 
 三の丸北辺の土塁と堀跡。
同上。 
 三の丸東端付近の土塁と堀跡。
田中城下屋敷の移築本丸櫓。 
 同じく大溝跡。
同じく土塁跡。 
 姥ヶ池。


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