畑殿屋敷(はた)
 別称  : 畑館、畑氏館
 分類  : 平山城
 築城者: 畑安高
 遺構  : 削平地、堀跡
 交通  : 高山市街より車で10分


       <沿革>
           三木姉小路氏家臣畑六郎左衛門安高(休高)の居館と伝わる。畑氏は新田義貞に
          従い、新田四天王として活躍した畑時能の後裔を称しているが、安高以前の系譜は
          不明である。安高は、大永年間(1521〜28)ごろには三仏寺城の城主であったが、
          天文十六年(1547)に平野(鍋山)豊後守安室が城と大八賀郷を横領したとされる。
          時期は詳らかでないが安高は三木氏に臣従し、江名子へ移り住んだ。館もこのとき
          築かれたとみられる。
           天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命令を受けた金森長近が飛騨国へ侵攻すると、
          姉小路頼綱は広瀬城を、その嫡子の秀綱は松倉城を拠点として抗戦した。安高は
          松倉城に入って長近の養子可重の軍を迎え撃って奮戦したが、金森家臣山蔵宗次
          と一騎討ちに及んで敗死したとされる。まもなく姉小路氏は降伏したが、畑氏と屋敷
          のその後については詳らかでない。
           ちなみに、現地説明板によれば享年は53歳とされる。これが正しければ、三仏寺
          城主だったとされる大永年間には、まだ生まれていなかったことになる。


       <手記>
           江名子の里に細長く伸びる舌状台地が畑殿屋敷跡で、先端近くの南側道路脇に
          説明板が設置されています。それによると、館は舌状部分のほぼ全体を使って造営
          されていて、「せんすい(泉水)」や「ちゃたてば(茶立場)」など風流に関するエリアも
          あったそうです。説明板の背後、「茶立場」および「西屋敷」にあたる台地先端部が
          桜の広場として開放されていて、「畑六郎左衛門休高之碑」と彫られた石碑もみられ
          ます。どの程度当時の地割を反映しているのかはわかりませんが、いくらか城館跡
          の雰囲気も感じられます。
           屋敷の中心部は、畑や宅地となっています。説明板によれば南辺東方に空堀が
          あったとされ、住宅地の脇にそれらしき段差は見受けられましたが、遺構かどうかは
          判然としません。
           館主の畑安高については、前述のとおり三仏寺城主だったとすると、天正十三年
          時点でどう見積もっても相当な高齢となり、とても満足に一騎討ちができるとは思え
          ません。畑氏が三仏寺城主に収まる経緯も不明です。たとえば安高と休高は親子
          2代だったとか、三仏寺城主というのは誤りというのでなければ、辻褄が合わない
          ようにも感じます。

           
 畑殿屋敷先端部と説明板。
台地先端部、西屋敷と茶立場のようす。 
 畑六郎左衛門休高之碑。
台地南辺東方の空堀跡か。 


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