広瀬城(ひろせ) | |
別称 : 田中城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 広瀬利治か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、石積み | |
交通 : JR高山本線高山駅からバスに乗り、 「天満神社前」下車徒歩25分 |
|
<沿革> 天文年間(1532〜55)に、広瀬左近将監利治が高堂城を築いて山崎城から移った ころに築かれたと考えられているが、詳しい築城の経緯は不明である。『飛州志』に よれば、広瀬(の)城は旧名で、広瀬家臣田中(与左衛門)筑前守が守ったことから 田中城と呼ばれるようになったとされる。 利治の子宗域(宗城)は、三木姉小路氏に協力して勢力を保持した。しかし、天正 十一年(1583)に姉小路頼綱(三木自綱)により謀殺され、広瀬城も奪われた。 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ侵攻すると、頼綱 は広瀬城に籠もって迎え撃った。金森勢には、宗域の子宗直も先導として加わって いた。頼綱の嫡子秀綱が守る松倉城が攻め落とされると、頼綱も降伏したため、 広瀬城で戦闘はなかったものとみられる。 戦後、宗直が旧領に復帰することはなく、広瀬城はそのまま廃城となった。 <手記> 宮川に臨んでせり出した比高100mほどの山が広瀬城跡で、尾根伝いのより高所 に寺洞砦・高堂城と続きます。北西麓の岐阜県文化財保護センターから登山道の 案内があり、城内は手入れのされた植樹林で訪城は容易です。 城は大きく3つのピークに分かれていて、どれを主郭と見るかは定説を見ていない ようです。私が現地を訪ねた限りでは、畝状竪堀群と副郭を具えた西端が、主郭と 感じました。『岐阜の山城 ベスト50を歩く』でも西端を主郭とし、東端を「東の郭」、 中央を「西の郭」としているので、ここでもこれを踏襲します。 東の郭は上下2段の輪郭式に削平されていて、たしかに独立性も高く、ここを主郭 と考える意見もむべなるかなと思いました。ただ、3つのピークでは最も低い位置に あるうえ、真っ先に攻撃に晒される可能性の高いエリアということから、ここを詰曲輪 とするのは無理があるように感じます。あるいは、田中氏の時代はこの東の郭エリア のみが城域で、そのころの主郭だったとすれば、辻褄が合うものと思われます。 西の郭は東側に付曲輪があり、その切岸には一部石積みが残っています。ここに だけ石材が使われているのは不自然ですが、当時どこまで石塁が用いられていた かは、ちょっと想像がつきません。 堀切を挟んで最奥の主郭は、なんといってもびっしり取り巻いた畝状竪堀群が一番 の見どころです。畝状竪堀を施した斜面の向こうに、さらに規模の大きな堀切を重ね ており、防備の厳重さがうかがえます。 ほかにも、田中筑前守の墓碑や通称「馬場」の曲輪などの見どころがあるようなの ですが、日没が迫っていたこともあり、少々駆け足の訪城となってしまいました。それ でも、見るべき技巧はだいたい見られたので満足です。 このように、広瀬城はかなり手の込んだ城塞ですが、山自体は緩やかで要害性に さほど優れているとはいえません。松倉城が落ちたと聞けば、城を開くのもやむなし かなといった感じです。もう1つ気になるのは、「田中城の旧名が広瀬城」という順序 です。というのも、広瀬氏が「広瀬城」という名の城を築いて居城としないというのも 不自然に感じます。どちらかというと田中城が旧名で、広瀬氏を逐った頼綱が広瀬城 と改称した、という方がしっくりくるような気がするのですが、いかがでしょう。 |
|
東の郭を望む。 | |
東の郭のようす。 | |
東の郭からの眺望。 正面の山は山崎城跡。 |
|
西の郭を見上げる。 |
|
西の郭東側下の付曲輪に残る石積み。 | |
西の郭のようす。 | |
西の郭と主郭の間の堀切。 | |
主郭手前の副郭。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の畝状竪堀群。 | |
同上。 | |
主郭背後の堀切。 | |
東の郭から延びる尾根北端の曲輪。 登城路を入って最初に行ける曲輪です。 |