松倉城(まつくら) | |
別称 : 夏城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 三木自綱(姉小路頼綱) | |
遺構 : 石垣、曲輪、櫓台、土塁、堀、井戸 | |
交通 : JR高山本線高山駅からバスに乗り、 「飛騨の里」下車徒歩40分 |
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<沿革> 天正七年(1579)、飛騨半国を制した三木自綱(姉小路頼綱)によって桜洞城に代わる 居城として築かれたとされる。自綱は、松倉城を夏城、桜洞城を冬城と呼んだといわれ、 松倉は夏季の居城だったとも読み取れるが、定かでない。 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ攻め込んだ。頼綱は 広瀬城に、頼綱の嫡子で家督を継いでいた秀綱が松倉城に詰めて金森勢を迎撃した。 松倉城は堅城で、城方も善戦したが、内通者が出て城に火を放ったため、ついに落城 した。秀綱は妻の実家の信濃淡路城主・春日淡路守を頼ろうとしたが、途中で土民に 討たれた。 戦後、新たな飛騨国主となった長近は、鍋山城ついで高山城を居城とした。松倉城も、 長近によって現在見られる姿に改修されたと考えられているが、三木氏滅亡後の動静 は詳らかでない。 <手記> 松倉城跡は高山市街の南西にそびえる比高250m以上のかなり高い山ですが、北麓 の飛騨の里から城域手前の峠まで林道が延びていて、駐車場やトイレも整っています。 地元ではハイキングコースとしても親しまれているようで、麓から歩いて登ってくる人と 何人かすれ違いました。 今日目にするすばらしい石垣群は、上述の通り金森氏によるものとみられています。 とくに、本丸と三の丸の西面石垣は隅石の算木積みが美しく、訪れる者を圧倒します。 これだけの高所にこれだけ立派な石垣造りの城が現れれば、飛騨の人たちに与える インパクトたるや絶大だったでしょう。 一方、雄大な石垣に比して城そのものや曲輪の規模は小さいと言わざるを得ません。 三の丸南の出丸などを除けば、おおよその縄張りは三木氏時代のものを踏襲している のでしょう。コンパクトであるという点は、高山城や東町城、萩原諏訪城など金森氏の 拠点城全般にいえる特徴でもあります。 松倉城の廃城時期については、高山城の築城を開始した天正十六年(1588)とする 説が有力なようです。しかし、私はこれには2つの点から疑問です。1つには、高山城を 築くのに10年以上を要しているのに、松倉城の石垣を3年足らずで完成できたとは、 到底思えません。もう1つは、松倉城を廃して高山城を築いたのであれば、松倉の石材 を転用していないのは不自然に感じられるという点です。 松倉城の完成度を見るに、おそらく高山城と松倉城は同時並行で整備されたのでは ないでしょうか。とすれば、規模としては小さい高山城の本丸と二の丸を組むのに12年 もかかっているというのも、納得がいきます。おそらく関ヶ原の戦いくらいまでは、高山の 詰城として使われていたものと推察しています。 |
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主城域後尾の堀切。 | |
三の丸西面の石垣。 | |
本丸西面の石垣。 | |
本丸南辺の石垣。 |
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三の丸中心部のようす。 | |
三の丸南西隅櫓跡。 | |
三の丸南出丸の門跡。 | |
三の丸南辺と埋門跡の石垣。 | |
同じく埋門跡のようす。 | |
二の丸南辺のようす。 右奥に見えるのは旗立台。 |
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本丸の城址碑。 | |
本丸から二の丸を俯瞰。 | |
本丸虎口石垣。 | |
本丸虎口石垣を内側から。 | |
本丸からの眺望。 画面右下の丘が高山城跡。 |
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同じく本丸からの眺望。 右手奥は御嶽山。 |
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同じく北東方面の眺望。 | |
二の丸の井戸跡。 | |
二の丸から本丸を望む。 | |
二の丸を先端下から見上げる。 | |
二の丸下の帯曲輪の石垣。 |