戸切地陣屋(へきりち) | |
別称 : 松前陣屋、清川陣屋、穴平陣屋 | |
分類 : 星型要塞 | |
築城者: 松前藩 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、砲台 | |
交通 : 函館市街から車で30分 | |
<沿革> 安政元年(1854)に箱館が開港すると、幕府は蝦夷地を収公し、松前藩からは知内以東を 召し上げて陸奥国伊達郡梁川に替地を与えた。加えて松前藩に木古内から箱館にかけて の警備分担を申し付けたため、藩は箱館近縁に駐屯地を建設する要に迫られた。 陣屋の置かれた戸切地村北西の野崎は、以前から城塞を築くのに適した要地と目されて おり、同年に福山城改修に携わった兵学者・市川一学も注目していたといわれる。設計は、 佐久間象山の「五月塾」で洋学を修めた松前藩士・藤原主馬康茂が務め、着工から5か月 を経た翌安政二年(1855)十月に完成を見た。五稜郭に8年先立つ、日本初の星型要塞 (稜堡式城郭)である。文久元年(1861)には屯田制が導入され、大手前に駐留兵の家屋が 建造され、清川にかけて開墾が試みられた。 明治元年(1868)十月、榎本武揚率いる旧幕府軍が森に上陸すると、新政府方の箱館府 は従っていた松前藩にも出兵を命じ、戸切地陣屋の藩兵200名が出撃した。同月二十四日、 七飯と大野口で激しい戦闘となったが、旧幕府軍の大鳥圭介が別動隊を率いて戸切地急襲 を図ると、これを知った陣屋の備頭(守備隊長)竹田作郎は建物に火を放ち、箱館へと撤退 した。以後、陣屋が再び使用されることはなかったとみられる。 <手記> 戸切地陣屋のある野崎は、南西側がアナタヒラ(穴平)と呼ばれる戸切地川の急崖となって いて、北東にも谷戸が切り込んでいます。北東は山の上手で回り込みにくく、想定される敵の 攻撃ルートが東から南東にかけての緩斜面に限られているのが特徴です。 そのため、図だけで見れば幾何学的で綺麗な四稜郭なのですが、実際に大砲を据えられる のは想定ルートに対応した東側の稜堡だけであったり、前方側に対して背後側の堀や土塁が 著しく貧弱であるなど、おそらく予算なども加味した合理的判断が随所にみられます。張り出し 状の東の稜堡には6か所の砲眼が土塁の切れ込みとして残り、また前後の虎口には、胸墻を 兼ねたとみられる蔀土塁が付属しています。この蔀土塁は、五稜郭にも石塁として設けられて おり、戸切地陣屋が西洋式要塞として本格的に設計されていたことがうかがえるでしょう。 一方、侵攻ルート正面と予想される南東側には、なだらかな斜面が悠悠と広がっています。 近世までの城郭論でいえば、要害性に乏しい緩斜面は弱点でしかありませんが、西洋式要塞 においてはこのような広大な空き地を「グラシ(Glacis)」と呼び、敵兵を城兵の弾幕に晒すため の空間として、重要な防備の一環とされています。しかしながら、屯田制が採用されると上述の 通りグラシに家屋敷が建設され、さらに土塁で囲まれていたそうです。これではグラシの意味が 完全に失われてしまい、設計者は西洋式の築城術を正しく理解していたものの、藩の経営上の 都合から骨抜きにされてしまったものと評価せざるを得ないでしょう。 ちなみに、大手前からは函館平野が一望でき、五稜郭タワーもはっきり望めます。今は木に 視界が遮られていますが、当時は函館湾も見渡せたことでしょう。他方で海上から砲撃される 心配はほとんどなく、こうした点も野崎が適地を見做された所以の1つと思われます。 ところで、設計者の藤原主馬は、箱館戦争に先立つ慶応四年(1868)七月のクーデターを境 に消息が途絶えるのだそうです。実権を握った尊王派の正義隊は、最後の和式城郭ともいわ れる館城を築きますが、未完のまま旧幕府軍に攻め落とされてしまいます。最新式の星型要塞 を築いた松前藩をクーデターでひっくり返した新政府側の正義隊が、旧式の和式城郭を築いて 籠城戦を挑むというのは、なんとも歴史に皮肉のような気がしてなりません。 |
|
南端の突出部。 | |
南西辺のようす。 | |
大手のようす。 | |
大手前のようす。 | |
東の稜堡。 | |
稜堡の突端。 | |
同じく稜堡の北面。 | |
北東辺の屈曲部。 | |
稜堡内の土塁と砲眼。 | |
大砲入跡。 | |
大手虎口と蔀土塁(右手)。 | |
胸墻を兼ねたとみられる蔀土塁。 | |
郭内のようす。 | |
郭内の建物跡の1つ。 | |
北端突出部に祀られている神社。 | |
搦手口のようす。 | |
北端突出部の堀と土塁。 | |
北西辺の堀と土塁。 | |
西端の突出部。 | |
南西辺の屈曲部。 | |
大手前から五稜郭タワーを望む。 |