梁川城(やながわ)
 別称  : 鶴岡城、梁川陣屋
 分類  : 平山城
 築城者: 伊達氏
 遺構  : 石垣、土塁、堀
 交通  : 阿武隈急行やながわ希望の森公園前駅
      徒歩10分


       <沿革>
           国人・伊達氏の中期ごろの居城である。初代伊達朝宗が文治五年(1189)に伊達郡へ入部した
          際に築かれたともいわれるが、有力とはされていない。仙台藩4代藩主・伊達綱村が編纂させた
          『伊達正統世次考』には、3代義広が「粟野の大館」を築いて移ったとあり、これを梁川城に充てる
          説もあるが、現在の梁川町粟野には別個の平城があったとされ、異論も多い。
           14世紀の8代宗遠のころまでには築かれていたとみられ、その子・政宗(大膳大夫)は梁川城で
          生まれたとも伝えられる。史料上は、11代持宗が応永二十年(1413)に鎌倉府方の攻撃で居城の
          大仏城を攻め落とされ、梁川城へ移ったとするのが初出とされる。
           その後、梁川城は伊達氏4代の居城となったが、天文元年(1532年)に伊達稙宗は桑折西山城
          へ移った。梁川城には稙宗の八男・宗清が入り、梁川氏を称した。同十一年(1542)には、稙宗と
          嫡男・晴宗の間で天文の乱が勃発し、同十七年(1548)に勝利した晴宗は米沢城を本拠としたが、
          宗清は梁川城主に留まった。
           天正十九年(1591)に伊達家が岩出山城へ転封となると、伊達郡は蒲生氏郷領となり、重臣の
          蒲生喜内頼郷が梁川城代に任じられた。慶長三年(1598)に、蒲生家に代わって上杉家が入封
          すると、やはり重臣の須田長義が城代となった。同五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、伊達勢が
          梁川城を攻撃したが、防衛に成功している。
           戦後も引き続き須田氏が城代を務めたが、寛文四年(1664)に上杉家が30万石から15万石に
          減封されると、伊達郡は天領となり、梁川城は廃城となった。しかし、天和三年(1683)に尾張藩
          2代徳川光友の三男・松平義昌が3万石で梁川藩を立藩し、梁川城は陣屋として再興された。
           享保十五年(1730)、4代通春は兄・継友の急死を受けて尾張藩を継ぎ、梁川藩は廃された。
          この通春が、将軍・徳川吉宗と対比される存在となる徳川宗春である。
           文化四年(1807)、蝦夷地防衛を重視する幕府は、松前藩主松前章広を9千石で梁川に移封
          させた。蝦夷は米が穫れないため事実上無石であったが、松前藩は貿易を通じて多くの収入を
          得ていたため、梁川転封は懲罰に等しかった。この背景には、松前藩が交易ないし対露外交で
          ミスを犯したと判断されたとするのが、妥当なところと考えられる。
           文政四年(1821)、章広は念願かなって松前の旧領に復した。安政二年(1855)には、前年の
          日米和親条約を受けて開港された箱館を中心とする地域の代替地として、改めて梁川など3万石
          が松前家の飛地領として与えられた。旧梁川陣屋が代官所となったとみられるが、詳しい統治の
          ようすは明らかでない。


       <手記>
           梁川城は南を広瀬川が洗う阿武隈川の河岸段丘上に築かれています。最終的に伝わる縄張り
          は蒲生家ないし上杉家時代に完成されたもので、伊達氏時代の構造は定かでありません。本丸
          には梁川小学校がありましたが、東日本大震災で被災し、2015年に新築・移転しました。
           その跡地には心字池を中心とする庭園が復元され、借景の石垣は物見櫓跡の貴重な遺構だ
          そうです。周辺には「政宗ダテニクル」というご当地アニメのキャラが散見され、調べてみると結構
          錚々たる声優さんがCVを務めているようです。二の丸も伊達高校の敷地となっていて旧状を推し
          測るのは困難ですが、校舎の東側に空堀と土塁が残っています。
           そして、梁川城跡で見逃してはならないのが、本丸から北に少し離れた集合住宅向こうにある、
          三の丸の大手枡形でしょう。住宅地に忽然と現れる高土塁に囲まれた枡形門跡は、伊達家時代
          の遺構ではないとはいえ、壮観の一言です。
           さて、伊達家ゆかりの梁川城は、その築城時期が大きな論点といえます。個人的に気になって
          いるのは梁川の地理的な位置で、福島(大仏城)や保原、桑折などから見ると、伊達郡の中では
          やや奥まったところにあります。他方で、梁川から南下する県道31号は霊山へ向かう主要ルート
          の1つであり、霊山防衛という観点に立つと、北の多賀城側からの攻め手が避けては通れない
          好点に立地していることが分かります。すなわち、記録にはみられませんが、霊山に北畠顕家や
          義良親王(後の後村上天皇)を迎えた南朝方の伊達行朝が、霊山城の北方の守りとして築いた
          のが、梁川城の起源なのではないかと、私見ながら考察しています。

           
 本丸周辺の看板。
同じく縄張り図。 
 本丸跡のようす(旧梁川小学校)。
復元された庭園と物見櫓石垣。 
 同上。
伊達高校校舎東側の二の丸土塁。 
 同上。
同じく二の丸空堀。 
 三の丸大手枡形。
同上。 
 枡形の外の空堀。
土塁上から枡形を俯瞰。 
 松前家時代の陣屋大手門跡。


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