高堂城(たかどう) 付 広瀬氏館(ひろせし) |
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別称 : タカウドの城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 広瀬利治 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、石積み | |
交通 : JR高山本線高山駅からバスに乗り、 「ラクール南」下車徒歩60分 |
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<沿革> 読みは「たかとう」とも。『飛州志』によれば、天文年間(1532〜55)に広瀬左近将監 利治によって築かれたとされる。広瀬氏は斎藤利仁の後裔を称し、南北朝時代まで には広瀬郷に土着していた。高堂城移転前の居城は山崎城であったといわれる。 利治の子宗域(宗城)は、三木姉小路氏に協力して勢力を保持した。しかし、天正 十一年(1583)に姉小路頼綱(三木自綱)により謀殺され、高堂城も奪われた。 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ侵攻すると、高堂 城は広瀬城とともに頼綱の本陣となった。金森勢には、宗域の子宗直も先導として 加わっていた。頼綱の嫡子秀綱が守る松倉城が攻め落とされると、頼綱も降伏した ため、高堂城で戦闘はなかったものとみられる。 戦後、宗直が旧領に復帰することはなく、高堂城はそのまま廃城となった。 <手記> 高堂城は比高220mほどの高所にある山城で、東麓の瓜巣公民館脇から登山道が 延びています。上の地図に示した南東麓の地点が広瀬氏の居館跡(広瀬氏館)とされ ていて、そこにも登山口と書かれているのですが、こちらの道が上まで通じているか どうかは分かりません。 公民館からの道は、概ね地図の遠回りする方のルートをたどりますが、最後は少々 異なっていて、東尾根から回り込む形となります。私が訪れた際は途中1か所倒木に 行く手を塞がれていて、斜面を直登気味に避けなくなりませんでした。また、沢登りの 道が突き当たったところで左に折れますが、真っすぐ鉄塔手前まで行って右折すると、 寺洞砦方面となります。 登山道が行き着く先は「馬止場」と呼ばれる東尾根の鞍部で、先端側には曲輪が 2つ展開し、その間には堀切ないし竪堀が設けられています。主郭側の斜面には、 これでもかとばかりに小さな腰曲輪が連続していて、まるで向かい合わせの鏡の間 に物体を置いたような感じになっていました。壮観ですが、どこまで防御に資したかは 疑問です。同様の小規模な腰曲輪群は白米城や牛追砦にもあり、広瀬氏の領域内で しか見られないため、同氏に特徴的な築城術ではないかと推察しています。 主峰は、山頂の主郭を中心に東尾根に2つ、西尾根に1つ、そして北尾根にも2つの 曲輪が連なっています。最も規模が大きいのは北尾根で、下段の曲輪には土塁も 残っています。 高堂城は、高山市内でも規模の大きな城といわれています。一方で、三木姉小路氏 の改修を受けたとみられる広瀬城や寺洞砦などには畝状竪堀群が残る一方、高堂城 にはそれがないことから、基本的には広瀬氏時代のままの縄張りを踏襲しているもの と推察されます。飛騨の土豪の城造りを今に伝えているうえ、広瀬氏の勢力の大きさ をうかがい知ることのできる、重要な史跡といえるでしょう。 |
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瓜巣公民館脇の城址碑と説明板。 登城口でもあります。 |
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石積み。登山道から主峰斜面に 目をやると見えるはずです。 |
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馬止場。 | |
馬止場前方の曲輪。 |
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その先の腰曲輪。 手前は堀切ないし竪堀に見えます。 |
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馬止場背後の連続腰曲輪群。 | |
腰曲輪群の1つ。 | |
主峰東尾根2段目の曲輪。 | |
同曲輪から主峰側の切岸を見上げる。 | |
同じく1段目の曲輪。 | |
主郭の切岸。 | |
主郭のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
西尾根の曲輪。 | |
北尾根1段目の曲輪。 | |
同曲輪から主郭方面を望む。 | |
同じく2段目の曲輪。 土塁が見えます。 |
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広瀬氏館跡。 |