比石館(ひいし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 厚谷重政
 遺構  : 曲輪跡、堀、切岸
 交通  : 上ノ国市街から車で15分


       <沿革>
           嘉吉元年(1441)五月、畠山重政の後裔と称する厚谷右近将監重政が蝦夷に渡って
          築いたと伝わる。『新羅之記録』によれば、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いに
          際し、比石館を含むいわゆる道南十二館のうち、花沢館茂別館を除く10館がアイヌに
          攻め落とされた。このとき、重政は館から身を投げ、川の主の大鮫に姿を変えたとする
          伝承がある。
           他方で、厚谷氏の家譜によれば重政の子・重時ないし孫・重形が文明元年(1469)に、
          コシャマインを討ち取った花沢館主武田信広に臣従している。このことから、厚谷氏は
          コシャマインの戦い後に比石館を回復し、館はこの年に廃城としたと考えられているが、
          確証はない。


       <手記>
           花沢館や勝山館のある上ノ国町の中心部から南西へ約15km、石崎川の河口に突き
          出た細長い岬に築かれた城です。比石とはアイヌ語の「ピツウシ(石の多い所の意)」に
          由来し、現在の石崎の地名や河川名は近世に転じたものだそうです。その名のとおり
          川沿いには石がごろごろしており、谷筋は荒々しく険しい印象です。
           郭内には館神社が祀られ、付け根に車を止めてフラットに訪城できます。付け根には
          堀切跡とみられる鞍部があり、その先の斜面は切岸となっているようすでした。社殿を
          建てる際に周囲を掘り下げたとみられ、また草木が茂っていて郭内に遺構があるのか
          は分かりませんが、おそらく単郭だったと思われます。平時の居館は東麓に営まれて
          いたとみられていますが、現在は掘り込み漁港となっており、跡地は消滅しています。
           『日本城郭大系』では、アイヌのチャシを転用したものと推測していますが、位置的に
          みて私もそうだと考えます。石崎川には鮭が遡上するそうで、川と海の双方を押さえる
          アイヌの魚群監視所としてのチャシがあり、和人もやはり海産物の交易で身を立てたと
          考えるのが自然でしょう。
           ちなみに重政の子孫である厚谷貞政は、寛永十四年(1637)に松前藩主松前公広を
          松前城焔硝蔵の火災から救い、自身は重傷を負って死去したとされ、コーエーの「信長
          の野望」にも登場します。

           
 北東から比石館跡を望む。
説明板。 
 付け根側から館跡を望む。
堀切跡とみられる鞍部。 
 堀切上の切岸。
郭内のようす。 
 館神社。
先端側のようす。 
 石崎川上流方面を望む。
郭内から堀跡越しに付け根側を望む。 


BACK