丸亀城(まるがめ)
 別称  : 亀山城、蓬莱城
 分類  : 平山城
 築城者: 奈良元安か
 遺構  : 天守、門、番所、長屋、石垣、堀、井戸
 交通  : JR予讃線丸亀駅徒歩15分


       <沿革>
           貞治元/正平十七年(1362)、細川頼之は南朝についた従弟の細川清氏の追討を幕府
          から命じられ、白峰合戦(高屋合戦)で清氏を討ち取った。讃岐・阿波を掌握した頼之は、
          自身の被官の東国武士に、讃岐国内の所領を分配した。そのうちの1人、武蔵国大里郡
          奈良郷の出身で武蔵成田氏の庶流とされる奈良元安は、戦功により鵜足・那珂の2郡を
          与えられた。元安は、鵜足郡に聖通寺城を築いて居城とし、さらに那珂郡の円亀山(まる
          かめやま)にも支砦を設けた。これが丸亀城のはじまりとされる。それ以前にも、荘内半島
          の海崎城を居城とする海崎元村の築いた城砦があったとする説もあるが、地理的な関係
          から信憑性は薄いと思われる。元村は、やはり白峯合戦での功により西長尾城へ移り、
          長尾氏の祖となっている。
           応仁の乱に際し、讃岐国衆の香西元資・香川元明・安富盛長・奈良元安の4人は「細川
          四天王」と呼ばれて細川勝元のもとで活躍した。この元安と頼之被官の元安が同一人物
          とは考えられず、奈良氏の系譜の正確性には疑念がもたれる。
           天正三年(1575)、那珂郡の奈良家臣のうち、新目・本目・山脇の3氏が天霧城主香川
          之景に寝返った。これを機に香川氏は奈良領へ攻め入り、奈良元政は那珂郡を失った。
          このとき亀山の砦も落とされものと思われるが、詳細は不明である。
           その後、香川氏は長宗我部氏に降ったが、天正十三年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉が
          四国を平定すると改易された。香川氏時代の丸亀城の扱いについては定かでないが、
          遅くともこのときに一旦廃城となったものと推測される。
           天正十五年(1587)に讃岐国主となった生駒親正は、高松城を新たに築いた。さらに
          文禄四年(1595)には、西讃を治める拠点として丸亀城を再興することとした。
           近世丸亀城は慶長七年(1602)に完成した。この間、同五年(1600)に関ヶ原の戦いが
          勃発したが、親正は西軍につき、その子一正は東軍に属した。一正の活躍により所領は
          安堵されたが、親正は隠居した。一正はそれまで丸亀に在所していたとされるが、家督
          継承に伴って高松へ移り、丸亀城には重臣佐藤掃部が城代として入った。
           一正の孫高俊の代の寛永十七年(1640)、生駒家はお家騒動(生駒騒動)を起こして
          改易となり、出羽国矢島に1万石を宛がわれた。これにより、丸亀城は再び廃城となった。
           翌寛永十八年(1641)、山崎家治が肥後富岡藩から西讃5万石へ加増・転封となった。
          家治の国入りに先立って、尼崎藩主青山幸成が領内を検分した。その際幸成は、居城
          を置く適地として観音寺琴弾山を第一に挙げ、亀山についてはとても良いが、5万石では
          維持管理が困難であろうと報告した。果せるかな、家治は丸亀城を再々興をすることに
          した。丸亀は西讃領の東の端に位置するため、家臣からの反対意見も強かったとされる。
          普請は翌寛永十九年(1642)に始まり、3年弱の突貫工事で、一応の完成をみた。
           明暦三年(1657)、山崎家は3代で無嗣改易となり、代わって京極高和が龍野藩から
          6万石で丸亀に入封した。万治三年(1660)、高和はそれまで南にあった大手を北に移し、
          南を搦手とした。また、現在に残る天守もこのときに完成した。改修工事はその後も続け
          られ、最終的に完了したのは延宝元年(1673)とされる。完成に先立つ寛文十年(1670)
          には、普請完了の証として城の全容を表した木図が幕府に提出された。これは城持ちの
          全大名に義務付けられていたものであるが、現存するのは丸亀城のものだけである。
           以後、丸亀藩は京極家7代を数えて明治維新を迎えた。
 

       <手記>
           丸亀城は現存12天守の1つと日本一の高さの石垣があることで有名です。ただ、石垣
          についてはほかにも伊賀上野城大坂城が同じ文句を謳っています。いったいどういう
          ことかと思いきや、丸亀は断続的に続く3段(4段とも)の石垣の「総高」が日本一なのだ
          そうで、約60mに及ぶそうです。それに対して、大坂と伊賀上野はそれぞれ単体の石垣
          の高さが約30mほど。丸亀の場合は単体だと一番高くても20m強だそうです。すなわち、
          一枚一枚の石垣の高さは他の2城には及ばないわけですが、丸亀の名のとおりの富士
          山型の小山に石垣が累々と連なるさまは、たしかに類例の少ない美しさと雄大さをもつ
          といえるでしょう。
           他方で、石垣の規模に比して、三重三階の小ぶりな天守がぽつんと佇んでいるさまは、
          ちょっと寂しくも感じます。個人的には、コンパクトで端正に整った丸亀城の天守は好み
          なのですが、やはり周囲にもう少し塀なり櫓なり木造建築物がないと、「日本一」の石垣
          との見栄えのバランスが悪いように思います。私が訪れた時は石垣の補修工事が半ば
          といった感じだったので、おいおい復元事業にも発展すればなぁと願うところです。
           亀山は綺麗な円錐形をしているので、縄張上の工夫の余地はおのずと限られてしまい
          ます。そのなかでも面白いのと思ったのは二の丸東の虎口で、一般的な枡形の外側に、
          もう1つ喰い違い状の出枡形が張り出しています。二の丸にもう1つある北西の虎口も、
          天守の真下を横切る深い喰い違いとなっていますが、本丸の1つしかない出入口の方は、
          単純な構造になっています。出枡形は南方向に対してより効果を発揮する形をしている
          ので、おそらく南に大手があった山崎氏による縄張りでしょう。その頃にはすでに二の丸
          までを最終防衛ラインとしていて、本丸は権威付けの空間と見ていたものと拝察され、
          とても興味深い部分といえます。
           また、亀山の南東麓には生駒氏時代のものとされる野面積みの腰巻石垣があります。
          こちらもまた件の高石垣とはまったく異なるものなので興味をそそられます。さらに、本丸
          西辺の石垣には継ぎ足された箇所が確認できます。生駒氏の石垣との相違から、継ぎ
          足したのは京極氏と類推されます。面白いのは、継ぎ足した部分の方が接合面に隙間
          が多く、野面に近い積み方になっている点です。つまり、この箇所をカウントすれば3様の
          石垣を拝むことができるということで、丸亀城の石垣の見どころの1つといえるでしょう。

 北から天守を見上げる。
大手門越しに天守を見上げる。 
 大手一の門(太鼓門)。
三の丸の高石垣。 
 三の丸北東隅の高石垣。
三の丸北東隅の高石垣上部。 
櫓が乗っていたのかは不明。 
 高石垣上から讃岐富士こと飯野山を望む。
二の丸東虎口の出枡形。 
 出枡形の奥の枡形。
二の丸のようす。 
 二の丸井戸。
天守近望。 
 天守から城下を望む。
本丸北西隅、姫櫓跡。 
 本丸南東隅櫓台と飯野山。
二の丸北西の虎口跡。 
 虎口下から天守を見上げる。
二の丸長崎櫓跡石垣。 
 三の丸北西戌亥櫓跡。
戌亥櫓跡から天守を見上げる。 
 本丸東辺下の継ぎ目のある石垣。
三の丸井戸。 
 二の丸南辺石垣。
山崎氏時代に大手門が置かれていた栃の木門跡。 
 生駒氏時代の野面積み石垣。
同上。 
 山下曲輪御殿表門と番所および長屋。
搦手の内堀。 


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