彦根城(ひこね) | |
別称 : 金亀城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 井伊直継、直孝 | |
遺構 : 天守、櫓、庭園、石垣、水濠、馬屋など | |
交通 : JR琵琶湖線彦根駅徒歩10分 | |
<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、近江の石田三成の旧領を与えられた徳川四天王 の1人井伊直政は、三成の居城佐和山城を嫌い、その西にある磯山に新規築城を計画した。しかし、 直政は関ヶ原での戦傷がもとで、同七年(1602)に死去した。 磯山築城の夢は、跡を継いだ嫡男直継や家臣達に引き継がれた。普請は、磯山を彦根山と改めた うえで、近隣12大名の助役による天下普請として進められた。 時あたかも大坂城の豊臣氏との緊張関係が続くさなかであったため、付近の廃城からかき集めた 資材を用いて、急ピッチで工事が行われた。槌音の響くなか、当主直継は鐘の丸⇒本丸と完成した 順に居所を移していった。現存する彦根城天守がずんぐりしているのは、四層だった大津城天守を 移築し、三重に改めたためであると伝えられてきたが、近年の解体工事の結果事実である可能性が 高いことが明らかになっている。大津城天守は、関ヶ原の戦いで西軍の猛攻を受けながら焼け落ち なかった、縁起の良い天守とされていた。 彦根城が全体の完成をみるのは、3代直孝の代の元和八年(1633)で、築城開始から足掛け20年 を要していた。そのころには、井伊家は直政時代の18万石から35万石へと大幅に加増されていた。 また、この間に大坂の豊臣家も滅び、西国に対する押さえという実用性は失われ、城の性格は譜代 最高禄の象徴という名目的なものに変容していた。 城は実戦を経験することなく、また井伊家も減転封することなく、明治維新まで続いた。 <手記> 2007年に訪れたときには、偶然にも築城400年祭(天守完成から数えてか)が開かれていて、普段 公開していない天秤櫓や西の丸三重櫓などにも入ることができラッキーでした(天秤櫓の中がLEGO ワールドとやらで、レゴブロックに埋め尽くされていたのはいかがなものかと思いましたが)。 さて彦根城は、国宝天守もさることながら、姫路城と同様残っている建築物遺構の多さが魅力だと 思います。下の写真にはありませんが、馬屋や欅御殿といった建物も見ごたえがあります。 難点は、(滋賀県全体にいえることですが)食事をとる場所が少なくしかも高いことです。城内に持ち 込むことは当然できませんので、こだわらない人は駅前などで済ませておくと良いと思います。 ちなみに「ひこにゃん」グッズは忘れずに買って帰りました。 |
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彦根城近望。 | |
佐和口多聞櫓。 | |
玄宮園から天守を望む。 | |
時代劇でおなじみ、天秤櫓と廊下橋。 | |
天秤櫓内から鐘の丸を望む。 | |
天守(東側から)。 | |
天守(西側から)。 | |
西の丸三重櫓。 | |
本丸着見台から佐和山を望む。 | |
大手口と大手橋と腰巻石垣。 |